パナソニックの社史 |
ここから本文です。 あらまし事業開始の契機タイム・カプセルEXPO'70の事業は、1967年(昭和42年)に始まった。同年5月、毎日新聞社は、大阪で開催される日本万国博覧会への一つの提唱として、タイム・カプセルを企画し、松下電器産業株式会社に対して共同実施を申し入れた。 松下電器産業株式会社は、折から、同社の創業50周年1968年に迎えるにあたり、松下電器創業50周年記念事業の一つとしても意義深い計画であると考え、その意味も含めて、この提案を受け入れた。 両社関係者は、早速、準備会議をもち、事業の具体的な実施計画案の作成に取りかかり、1967年12月1日、両社が主催して推進することを正式に決定した。 そして1968年1月8日、タイム・カプセルEXPO'70事業計画は、毎日新聞の社告を通して、初めて、広く社会に発表された。 開封時期の設定タイム・カプセルEXPO'70の最終開封時期については、事業計画立案当初、1,000年案、3,000年案、5,000年案などがあった。 まず1,000年案については、日本における奈良・東大寺正倉院の文化財が、1,000年以上を経過しても、なお、よく保存されている状況から、20世紀の進んだ保存技術を活用すれば、もっと長期間残すことができるという理由で、取り下げられた。 しかし、20世紀の科学技術が著しい進歩を遂げたとはいえ、なお未来学の分野では、せいぜい30年先程度のことしか詳しい予測は因難である、という意見もあった。1967年12月6日に開かれた両社関係者からなる準備委員会では、このような意見をもとに真剣に討議した結果、最終的には5,000年案を選ぶことに決定した。その主な理由は、「文明の歴史は1970年を起点として、過去ほぽ5,000年前にさかのぼることができる。そこで5,000年後を設定すれば、現在は、その過去と未来を結ぶ時間の線上のちょうど中間点に位置することになり、有意義である」と考えたからである。 技術関係者たちも、5,000年という気の遠くなるような長年月に挑戦する勇気と冒険心が、必ずや後世の人類に真に役立つ研究、技術閉発を新しく生み出すにちがいないと信じて、この未知の課題と取り組むことを決意した。 大プロジェクト両社関係者は、早速、準備会議をもち、事業の具体的な実施計画案の作成に取りかかり、1967年12月1日、両社が主催して推進することを正式に決定した。 そして1968年1月8日、タイム・カプセルEXPO'70事業計画は、毎日新聞の社告を通して、初めて、広く社会に発表された。 両社の関係者は、直ちに組織づくりに着手した。事業の最高統括機関としてタイム・カプセルEXPO'70委員会をおくとともに、この計画推進の軸となる技術委員会、選定委員会の人選を行った。 日本の科学技術分野を代表する23名の学者、専門家からなる技術委員会は、タイム・カプセル本体の開発、収納品の保存技術、埋設技術などに関して審議するため、1968年3月12日の第1回技術委員会をかわきりに同年4月19日、9月6日、1969年1月22日と、通算4回の慎重な討議を重ねた。 一方、自然科学、社会、芸術の各分野において著名な学者、専門家27名(その他幹事2名)からなる選定委員会は、1970年現代を代表する収納品を選び出すことを主目的として、1968年4月20日、同年9月7日、12月7日と3回にわたって審議を重ねた。 技術委員会および選定委員会で結論の出せない問題については、それぞれ新たに小委員会を組織して、さらに具体的、専門的に問題を掘り下げるよう努力した。両主催者としては、この事業を円滑に推進するため、実行委員会を組織し、その事務局を毎日新聞社大阪本社編集局事業部および松下電器産業(株)本社報道部、(1973年8月から同社広報本部に改称)においた。また、タイム・カプセル本体の設計・製作、選定品の収納、埋設の調査・研究などを実施するため、松下電器社内に技術陣を中心とした開発本部を設けた。 収納品の決定どんな事業でも、いくつかの克服しなければならない難題があるが、タイム・カプセルEXPO'70にも、要約すると、二つの大きな難題があった。 一つは、膨大な1970年現代の品々の中から、収納品として何を選定するかであり、もう一つは、5,000年という超長年月の間いかにして収納品を収納時のままの姿で保存するか、ということであった。 これらの難題を解決するために、関係者は、広範な専門分野の権威ある学者および専門家の英知を結集すること、また、現在生存する各種各層の多くの人びとの衆知を集めることが、欠かせない基本条件であると考えた。 まず、収納品の選定については、第1回選定委員会の決定に従って、1968年5月、日本国内および海外各国の学者をはじめとする知名人にアンケートを送り、収納品に何を選ぶべきかの意見と、5,000年の未来への簡単なメッセージを求めた。 さらに同年11月には、日本国内の人びとに呼びかけて収納品アイデアを募集し、約12万件の提案を受けた。選定委員会は、これらの提案を参考にして、技術委員会の技術上の見解も考慮しながら選定審議を行った。 1969年2月28日、この事業の最終決定機関であるタイム・カプセルEXPO'70委員会が開催され、技術および選定両委員会の報告に基づいて、カプセル本体、収納品、埋設などについての原案を審議し、決定した。 特別製作の収納品委員会による原案決定の日を起点として、いよいよ本格的な収納品の収集が始まった。 収納品の大半は市場にあるものを購入して集めたが、なかには、この事業のために特別に企画・製作したものも少なくなかった。5,000年を計時する〈プルトニウム原子時計〉、多数の学識者を動員して現代の科学水準を集大成した「未来へおくる科学レポート」および「未来へおくる科学統計資料」、また、さまざまな統計的要素を立休的に組み入れた画期的な総合地図「アトラス日本と世界」、英語、フランス語、ロシア語、スペイン語、中国語の国連公用5か国語に日本語を加えて同文の簡単なメッセージをステンレス板に食刻し、未来の人びとのための文字解読の手がかりとした〈現代風ロゼッタ石〉、現代の世相を視覚でわかりやすく伝える〈日本現代風俗絵巻〉や映画〈表情1970〉、近代日本文学の短編を選んた「日本の短編(上)(下)」、漫才、落語など現代大阪の大衆演芸家の芸を録音テープに収録した〈お笑い1970〉、日本全国から公募して選んだ小・中学生の作文と図画、ユネスコを通して集めた世界の児童画、主催同社の会長の5,000年後の人びとへのメッセージを吹き込んたゴールデンレコード、等々である。 760万人に公開1970年3月15日、アジアで初めて開かれた日本万国博覧会は、参加77か国、史上最大の規模で、6か月の会期中、盛況を極めた。なかでも、〈伝統と開発〉をテーマとしてタイム・カプセルEXPO'70を出展した松下館は、天平風の美しいたたずまいの堂宇に、皇太子殿下ご夫妻をはじめとする国内外の多くの知名人を迎え、人気館の一つとして、期間中の入場者は約760方人に達した。 万全の保存技術保存技術の検討は広範囲にわたったが、その一つにタイム・カプセル本体、つまり、収納品を詰める容器の研究・開発・製作があった。技術委員会の指導のもと、開発本部は、日本が関発したNTK-22ATの組成をもつ特殊ステンレス鋼を材料とした、球状(つぼ形)の本体の製作に取りかかった。そして、材質テスト、鋳造実験、溶接実験を念入りに繰り返し行ったうえ、1969年4月に本格的な第1回鋳造を開始し、同年11月に待望の第1番機が完成した。この後第4番機まで体を次々に製作した。 現物中心の収納品は、材質が多種多様であるため、加速寿命試験を行って、その長年月の間に起こる劣化状状を推定し、いろいろな保存技術を施した。 すべての収納品は、酸化エチレンによるガス殺菌、放射線殺菌、加熱殺菌などの方法を使い分けて、殺菌処理を行った。また、本体内部を29個のステンレス鋼の内箱に分割して収納した。さらに、材質の変化が他の品物に影響を及ぼす恐れのあるものについては、一つずつ石英管などの小容器に密封した。 人災だけが心配埋設地の問題については、当初から、いろいろな案が出され、検討されていたが、1969年2月28日の委員会で大阪城公園に内定し、文化庁、大阪市の認可を得て同年3月24日に正式決定をみた。早速、埋設地点のボーリングによる新たな地質調査や種々の測量を重ねた後、埋設構造図面の設計を行い、同年10月1目から本格的な埋設工事に入った。 そして同年10月8日、地鎮祭を挙行し、10月末にはオーガーパイルを打ち込み、掘削工事を開始した。 一方、全収納品の保存技術対策が完了するとともに、松下電器技術本部に設けられた無菌室で、本体への収納が始められた。1970年12月7日には収納式を行い、全収納品2,098点が第1号機に密封された。 1971年1月20日、大阪城公園内の埋設地点で、埋設式が挙行された。埋設管、3層のコンクリート保護体と幾重にも防護された第1号機は、多数の関係者が見守るなかで、100tクレーンにつり上げられ、地下15mの埋設溝(こう)へ静かに降ろされていった。 第2号機は、同年1月28日、第1号機の上部へ降ろされて埋められた。 日本が国家管理日本万国博覧会開幕1周年記念日にあたる1971年3月15日、タイム・カプセルEXPO'70完工式が、盛大に行われた。2個のタイム・カプセルEXPO'70が埋められた上部に開封解説書保存容器が置かれ、さらに地上に花こう岩の敷石とステンレス鋼からなるモニュメント(記念碑)が設置された。完工式では、埋設地点におけるモニュメントの除幕式と、会場を変えて、国家への寄贈式および記念パーティーが行われた。 主催両者は、当初より、この事業は、現代人の遠い未来に対する単なる夢想といったものではなく、現代科学の成果を問うという大実験を長期間にわたって実現しようという学術的意義があることから、国家に寄贈することが一番適切であると考えていた。 その願いが受け入れられ、形式上は、この完工式の時点をもって、タイム・カプセルEXPO'70および地上部の付属施設は、文部省の管理下におかれることが決定した。 開始より実に3年余か月、この事業はここで一応の区切りをみたことになる。 埋設されたものは常時見ることかできないので、多くの人から観覧したいという要望があった。これに応じて、地上用に残されていた本体および収納品一式が大阪市に寄付され、1971年11月22日から大阪城公園内にある大阪市立博物館の一室に展示されている。 また、もう一つの本体および事業の各種配置が、松下電器歴史館に陳列・保存されている。なお、タイム・カプセルEXPO'70を国家に寄贈するにあたって、文部省、大阪市、両主催者間で、次ぺージにあるような管理上の取り決めが明文化された。 タイム・カプセルEXPO'70に関する覚書現代の人類文化の結晶・記録を文化遺産として遠い後世へ伝えるため1970年の日本万国博覧会の開催を記念して実施されたタイム・カプセルEXPO'70の管理について、次の条項により覚書を締結する。
上記覚書の締結を証するため、本覚書4通を作成し、甲、乙、丙、丁四者記名押印のうえ、各自その1通を保有するものとする。 昭和46年3月15日 甲 文部大臣 坂田 道太 |
※本ページの内容は、タイム・カプセルEXPO'70記録書(1975年3月発行)を引用して掲載しています。社名や組織名など現在とは異なる場合がありますのでご了承ください。
© Panasonic Corporation 2011