分離派建築会100年展建築は芸術か?

分離派研究会メンバーによる作品紹介

分離派研究会メンバーによる作品紹介(敬称略・五十音順) 

本展の企画に学術協力した「分離派100年研究会」研究者たちがお勧めの1点をご紹介します。

東京中央電信局  小パラボラ アーチの頂上のフロッタージュ 
山田守(逓信省営繕課) 採集:1968(昭和43)年頃 日本建築学会建築博物館

美術家の岡部昌生さんが広島や福島ほか各地で続けていらっしゃるフロッタージュ制作と重ねて考えると、都市空間の再編成を迫る経済的圧力に曝され、解体を被ることになった建物を、手作業で超長時間露光させたこの「作品」は、解体建物について初めて公刊され た『建築記録』とともに、単に失われゆく形態への愛惜を超えて、未来への祈りを潜ませているように思います。健やかな都市と建築に向けて、思考と歴史を紡いでいきましょう。

天内大樹(静岡文化芸術大学准教授)
ひとりでは解けない分離派建築会というパズルを抱いていたところ、続々と出現する資料になかなか追いつきませんでしたが、自分をみつけてうつむかず生きていこうと思います。

ものを思う女の頭部(ほっそりした首の少女の頭部)
ヴィルヘルム・レームブルック  1913/14年 石本建築事務所

レームブルックは、1881年にドイツ西部のデュイスブルク近郊に生まれ、1919年に39歳の若さで自ら命を絶った、ドイツ近代彫刻を代表する作家です。本作品は、オズヴァルト・ヘルツォークの《アンダンテ》とならんで、石本喜久治旧蔵で、彼がおそらく渡独時に購入し持ち帰ったものと考えられます。その構成的な形態から建築との親和性が感じられるブロンズのヘルツォーク作品に比べ、この少女像は、デフォルメされてはいるものの遙かに具象的でテラコッタによる表面は人肌をも感じさせます。石本の少女を見つめる熱い眼差し、自邸で本作品が占めていた特権的な場所は、まさにその現れではないでしょうか。

池田祐子(京都国立近代美術館学芸課長)
京都国立近代美術館・国立西洋美術館主任研究員を経て、2019年4月から現職。専門はドイツ(語圏)の近代美術・デザイン史、日独(墺・瑞)芸術交流史。

卒業設計 屠場 配置図、鳥瞰透視図
森田慶一 1920(大正9)年  東京大学大学院工学系研究科建築学専攻

これは「屠殺場」のことであり、生きた家畜等を食肉・皮革等に加工する近代施設を指す。森田が、あえて「殺」を除き「死」のイメージを弱めたタイトルにしてまで選んだ理由やその背景に何があるというのか。このほか堀口の「斎場」や石本の「涙・凝れり-ある一族の納骨堂」にも「死」が明らかに漂っている。さらに宣言文の末尾にも「死」の文字が確認できる。新しい建築表現に個性・生命・創作を求めて集い結成したはずの彼ら若人に、生の深淵あるいはアンビバレンスとしての死に向き合わねばならぬ秘かな事態があったとすれば、かかるメンバーを繋ぎ止めた在り処を第1回展覧会の内容から、あらためて見つめ直す必要があるように思われる。

市川秀和(福井工業大学教授)
1968年生まれの能登七尾出身。武田五一や森田慶一、増田友也らによって学術的に創造された「建築論」の京都学派の知的遺産とその可能性を追究している。

ある博覧会の試案
堀口捨己 1921(大正10)年 堀口捨己資料アーカイブズ

本作は、分離派建築会の実質デビュー作となった平和記念東京博覧会のための立面図である。堀口捨己が設計した各パヴィリオンが、左から鉱山・林業館、航空・交通館、池塔、かまぼこ屋根の動力・機械館の順で描かれている。紫、金、銀、赤と背景の黒の華麗な色づかいと、幾何学的なかたちの構成は、琳派のきらびやかな屏風のようでもあり、堀口が海外の最先端の美術やデザインを参照していたこともうかがわせる。堀口は絵画や彫刻を指導する太平洋画会の研究所にも、分離派建築会の仲間である瀧澤眞弓や山田守とともに在学中より通っていた。中央の尖塔が銀色に輝く、もう1点の計画案とともに、通常非公開の貴重な作品をぜひ会場でご鑑賞いただきたい。

大村理恵子(パナソニック汐留美術館学芸員)
2007年より現職、建築展を担当。

旧米川邸 本棚
蔵田周忠 1928(昭和3)年 個人蔵

旧米川邸は、蔵田周忠が設計した40棟以上の住宅の中で唯一存在しているものです。蔵田は、その住宅にふさわしい家具も一緒にデザインしました。この本棚は、旧米川邸で使われていたものです。幾何学的な構成のシンプルで美しい本棚です。当時、施主であったロシア文学者米川正夫の翻訳した本類が並べられていました。同じくロシア文学者になった子息米川哲夫東京大学名誉教授に受け継がれ、今回の展示のために北軽井沢からお借りしてきました。旧米川邸は、当主はかわられましたが現在も大事に住みつがれています。併設している旧米川邸インテリア模型のなかにもこの本棚があります。また、大事な資料のあった書斎は防災のため鉄筋コンクリートで造られています。ゆっくり探してみてください。

岡山理香(東京都市大学教授)
その建築にまつわる物語を知るために、まずは現地へ行きます。そこで見聞きしたこと、出会った人々の記憶が私の研究生活の支えになっています。

『分離派建築会宣言と作品』(部分)表紙
画:堀口捨己 1920年 出版:岩波書店 東京大学工学・情報理工学図書室工1号館図書館B蔵

分離派建築会は、東京帝国大学の様々な分野の学生たちが集会などを開いていた、第二学生控所で最初の習作展を開きました。その後、白木屋において第1回作品展を開催し、併せて、本書を刊行しました。「我々は起つ。」から始まる宣言文に加えて、ドローイング、論考などが収録されています。学内での発表に留めず、分離派建築会が提案する従来の枠に囚われない建築の新たな可能性を世に問うため、一般大衆への鑑賞を意識した百貨店を会場とする作品展や出版物に発表の場を展開させて行きました。こうした彼らのメディア戦略もまた、当時としてはとても斬新なものでした。今回の展示では、100年という節目に、新たな視点から彼らの活動を再評価するだけでなく、分離派建築会の展覧会、出版活動に係る豊富な建築資料を展示しています。

勝原基貴(千葉大学特任研究員)
文化庁国立近現代建築資料館等を経て、2020年1月から現職。専門は日本近代建築史、建築資料アーカイブ。

野帳(第九巻・土耳其)
伊東忠太 1904(明治37)年 日本建築学会建築博物館

伊東忠太の「眼」を感じる野帳。この素描とメモについては、その現場を伊東自身が語っています。「支那、インドの留学を終わって、インドからトルコに向けて出掛けた途中、(中略)船の中を見渡すと実に不思議千万な装飾模様がある。(中略)実に不思議でたまらなかったので、スケッチブックを出してボツボツ写生をはじめて居りました。所が一人の外国人が来て話して呉れました。これはオーストリア人でありましたが、『お前これを写生しているのか、これはゼツェツションだよ』と言って呉れました。」(伊東忠太「セセッションの回顧」『建築新潮』1928年6月号、3頁。)時代の突端で世界と出会った伊東の驚きが鮮やかに伝わってきます。

河田智成(広島工業大学教授)
ウィーンで分離派を批判したアドルフ・ロースへの関心から研究をスタートしました。多層的な分離運動が次の時代を拓いて行くことをあらためて感じています。

瀧澤眞弓 日本農民美術研究所 模型
制作:2019(令和元)年  菊地潤 神川・山本鼎の会

これは山本鼎の農民美術運動100周年を記念して制作された日本農民美術研究所の模型です。建物は既に解体済ですが、幸い図面が残されていたためそれを基に模型としての再現が試みられました。
瀧澤は山本から設計を依頼された際に、「建築の形態に音楽性を取り入れたい」と語ったそうです。それはおそらく「音楽と建築」という論文において音楽をヒントに幾何学的造形を目指そうとしたことが根底にあったのでしょう。外観は茅葺き民家にしてはどこか直線的で、三角形や四角形などの幾何学形状がみられます。人々は建物を見て北欧民家のイメージを抱いたそうです。瀧澤自身も「赤黒塗料を施すこと」と着彩を指示したことが判明しており、この模型でもその再現が試みられました。そして最も謎めいている点は、瀧澤がなぜかこれを分離派展に出品しなかったことです。中世ゴシック建築を思い、無名の民衆の力の結晶に建築芸術の真のあり方を考えた瀧澤が、敢えて自らの作品として出品せずに無名性を際立たせようとしたのでしょうか。

菊地潤(ifaa建築と美術研究会会員)
ifaa (建築と美術研究会)会員。 website 「分離派建築博物館」運営。 2019 年に日 本農民美術研究所の模型を作成。

『建築様式論叢』(六文館)
板垣鷹穂、堀口捨己(編) 1932(昭和7)年 京都国立近代美術館(上野伊三郎+リチ コレクション)

本書に寄稿した藏田周忠は、「『建築様式論叢』一巻は、方形に近い色紙版、707頁の大冊である。恐らく此種のものでは、1932年度に於ける記録的な出版物の一であらう。」(「『建築樣式論叢』解題[一]」『國際建築』、1933.1)とその意義を紹介しました。内容もさることながら、本の装丁の美しさについても、本書の編集者の一人・堀口捨己の並々ならぬ心入れがあったことで知られる一冊です。

近藤康子(京都橘大学講師)
堀口捨己の茶室論を研究しており、「建築とは何か」が深く問われた近代において、茶室という特殊な空間がどのように読み解かれたのかということを、日々考えています。

『近代英国田園住宅抄』(建築画報社)
蔵田周忠 1926(昭和1)年 東京都市大学図書館(蔵田文庫)蔵

蔵田は堀口による『現代オランダ建築』が刊行されて間もなく1925年4月から『建築画報』誌に「近代英国田園住宅抄」の連載を始めた。連載10回分に5回分程度の内容を加筆して出版されたのが本書である(底本はローレンス・ウィーバー『今日の田園小住宅』)。オランダの地方的な建築への堀口の視線と同様、田園のエッセンスを近代的に翻案するという操作に当時の建築家が夢中になっていたことを伝える史料である。

杉山真魚(岐阜大学准教授)
英国の近代建築を専門としています。蔵田がモリスやヴォイジーなど英国人の作品を解説しているのがきっかけで今回参加させていただきました。

山田守 鶴見邸 模型
制作:2020(令和2)年、東京理科大学岩岡研究室

住宅設計は少ない山田守ですが、快適な生活についてもよく考えていました。鶴見邸の鉄筋コンクリート造部分の模型は断面が分かるように作られています。1階食堂は一部がガラス戸で2室に仕切られ、大きな開口窓により半外部化が可能になる「ベランダ」がつくられています。そして来客時にはガラス戸が壁の中に収納され、1室として使用。エクステンションテーブルにより12人まで対応可能になっています。2階にはサンルームがあり、太陽の紫外線の効用を期待しています。また床は逆梁で床下に設備スペースを確保、木造床によって足触りや騒音への配慮をした他、改修時に下階に影響が無いように考えられています。

大宮司だいぐうじ勝弘(DOCOMOMO Japan 事務局長)
山田守のモノグラフを粘りながら続けています。本展の企画に関わったことで、彼の青年期における分離派建築会から受けた影響についての理解が深まりました。晩年の問題作、京都タワービルや日本武道館へ繋がる独創的な設計手法についても少し解けた気がしています。

堀口捨己 紫烟荘 模型
制作:2020(令和2)年 明治大学小林研究室

一見して、じつに不思議な建物です。お椀を伏せたような屋根は茅葺きで、それに水平の屋根と四角い箱が突き刺さっています。さらには数寄屋風の付属屋が繋がっていて、小さな建物でありながら複雑なハイブリッド建築になっています。様々な建築様式が併存したこの時代を象徴する作品と言えるでしょう。
堀口捨己は1923年にヨーロッパに渡り、その旅の途中、アムステルダム近郊のベルゲンを訪れています。そこで目にしたのが、茅葺き屋根をいただく煉瓦造の住宅群でした。それはオランダの若手建築家たちが手掛けたもので、堀口は偶然出会ったこれらの住宅に強く心を動かされたようです。鉄とガラスとコンクリートとは異なる建築の可能性を、茅と煉瓦の住宅に察知したのでしょう。帰国後、堀口は工業製品に置き換えられつつあったこうした自然素材を「非都市的なもの」として再評価し、紫烟荘をつくることになりました。それから100年を経たこんにち、再び「非都市的なもの」への関心が高まっているように思えます。

田路貴浩(京都大学大学院教授、分離派100年研究会代表)
森田慶一は京都大学で学んだ私の先生の先生で、私が最初に赴任した明治大学では、堀口捨己が創設した講座を担当させていただきました。

日本歯科医学専門学校附属医院新築設計図 正面図
山口文象(蚊象) 制作年不詳 RIA(アール・アイ・エー)

ベルリンのヴァルター・グロピウスのもとより帰国後に手掛けた、山口文象の実質的デビュー作。バウハウス風のモダニズムのデザイン、日本におけるその先駆け、というだけではない。スロープを使った動線分離、円錐形の臨床講義室、教壇に対し縦並びとなる階段教室の机配置。当時として、常識破りの実験的デザインが組み込まれた。造形のおもしろさを希求したのではけっしてない。病院ならではの複雑な機能をしっかり組織化して、ていねいに空間配置しているさまが平面図から読み取れる。モダニズムの初心に触れるような、清々しさ。

田所辰之助(日本大学教授)
ドイツの近代建築を専門にしていることから、山口文象周辺をとお誘いいただきました。8年におよぶ研究会とシンポジウム、とても刺激的で、ありがとうございました。

辰野博士作物集図
後藤慶二 1916(大正5)年 辰野家

辰野金吾の還暦祝いに教え子のひとりである後藤慶二によって描かれた、いわば辰野金吾作品集。工科大学本館、日本銀行、国技館、東京駅など辰野の設計にかかる作品がならぶ。還暦を迎えてもなお、建築界を牽引する辰野とその弟子たちの活躍を象徴する作品であろう。
しかし1919年(大正8年)、辰野金吾とともに年若い後藤慶二もスペイン風邪により急逝したため、翌年から始まる分離派建築会の活動を見ることは叶わなかった。もしも彼らが健在であったらどのように評価したであろうか、想いを馳せたい。

角田真弓(東京大学技術専門職員)
建築に関わる資料を調査研究しています。

多摩聖蹟記念館
中林僊 1934(昭和9)-1937(昭和12)年 多摩市教育委員会

自然の風景のなかに溶け込むように建つ、聖蹟記念館。この水彩による風景画は、画家・中林僊(1878(明治11)年―1937(昭和12)年)によるものです。京都で生まれた中林は、浅井忠に師事し、民家など自然と人々との生活を題材にし作品を残しました。彼の目に映る聖蹟記念館は、明治天皇の顕彰施設としての偉容さはなく、自然のなかに溶け込む風景として描き出されています。この展覧会では、建築家の残した図面や写真だけでなく、当時の人々の目に、分離派建築会の建築がどのように捉えられていたかを、絵画なども交えながら紹介しています。

本橋 仁(京都国立近代美術館特定研究員)
京都国立近代美術館特定研究員、建築史家。博士(工学)。メグロ建築研究所取締役、早稲田大学理工学術院建築学科助手を経て、2017年より現職。

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