没後50年 河井寬次郎展 ―過去が咲いてゐる今、未来の蕾で一杯な今―

展覧会のみどころ

近代陶芸や民藝運動で知られる河井寬次郎の没後50年を記念して開催する大回顧展

陶芸作品だけでなく木彫や書も出品。寬次郎の仕事の全貌と精神世界に迫ります。
約130点からなる作品群は、とても見ごたえがあります。

山口大学所蔵の作品を初公開

芸術作品ではなく「商品学」の研究資料として大正10年と12年の二度にわたって山口大学が収集し、2014年に発見された寬次郎の初期作品が今回の展覧会で初公開されます。

河井寬次郎と松下幸之助にまつわる作品を特別出品

パナソニックの創業者・松下幸之助が求めた寬次郎の陶芸作品や、幸之助が文化勲章を推薦した際に寬次郎に贈った当時の最新トランジスタラジオ「パナペット(R-8)」の同型品を特別出品いたします。

河井寬次郎が生涯をかけて向き合ったのが土-陶器-でした。

明治23(1890)年、島根県安来に生を享けた寬次郎は、松江中学校時代に陶器の道へ進むことを決意します。しかし窯元に直接弟子入りする道は選ばず、東京高等工業学校窯業科へ進学。卒業後は京都市立陶磁器試験場へ入所して、陶磁器における科学的基礎を若い段階でしっかりと身につけました。その基礎は大きな根となり幹となり、後の寬次郎陶業において、見事な花を咲かせることとなるのです。
昭和41(1966)年、76歳で没するまでの半世紀にわたる作陶生活において、寬次郎の作風は三つのスタイルで変遷します。中国や朝鮮の古陶磁に倣った初期、民藝運動と連動した「用の美」の中期、そして戦後の自由な造形世界の後期です。それぞれが一人ずつ別個の作家の作品と見紛う ほどの、質量ともに豊穣な寬次郎の土の世界を存分にお楽しみください。

《三色打薬双頭扁壺(さんしきうちぐすりそうとうへんこ)》、 1961年頃、個人蔵

彫・デザイン

時として「表現者」と呼ばれる寬次郎は、
器以外にも多くの仕事を残しています。

戦後、造形への興味は、陶器と平行して木彫制作という形でも表わされます。60歳から70歳にかけての10年間、後に京仏師松久宗琳となる若き日の松久武雄氏の助力を得て、約100点近い木彫作品が生み出されました。題材は具象から抽象まで様々ですが、タイトルはつけずに「木彫像」「木彫面」とのみ称し、その解釈は受け手に委ねられています。 またこれらの木彫制作のきっかけとなったのは、戦前、昭和12(1937)年、47歳のときの自邸(現・河井寬次郎記念館)の建築時に出た余材からの試みの数体でした。
この自邸を寬次郎は精魂込めて自ら設計しています。そして実兄を棟梁とする郷里安来の大工集団を京都に呼び寄せて建築。同時に多くの家具調度類のデザインをし、生涯にわたる美の拠点として、寬次郎の世界を空間そのもので表現することになるのでした。

《キセル》[デザイン、制作・金田勝造]、1950年頃~
《木彫像》、1954年頃

言葉

ものづくりを生業とした寬次郎は、
同時に数多くの文章や言葉を残しています。

若い頃より『學友會雑誌』に投稿するなど、書くことも得手とした寬次郎は、民藝運動の同志と共に『工藝』を発刊し、また自らの著書も多く残しています。
なかでも戦中より生み出された、詩のような短い詞句は、寬次郎の精神や思考が凝縮された珠玉の言葉の数々で、今も多くの人々の心を打ちます。それらは58歳の時に『いのちの窓』という一冊の本にまとめられますが、その萌芽は26歳の時の自家製本『火の寄贈』に既にあり、30年以上の時の熟成により、言葉はさらに味わい深いものとなりました。また、『いのちの窓』刊行後も詞句は生み出されており、その数は膨大です。
そして寬次郎の言葉の世界は、最終的には文字が削ぎ落されてゆき、四~五文字の漢字による造語となって表わされます。これらについては、読み方すら提示されておらず、すべて読み手の自由に任されています。

《『いのちの窓』より(詞句・複製)》、1948年頃