Panasonic Sports

ピックアップフェイス

柳田 一喜

2014年日本選手権、ベスト8がかかる一戦で、8番バッターが2打席連続の大アーチを放つ。スタンドに突き刺さる打球からグラウンドに目を戻すと、右の拳を振り上げ、ダイヤモンドを駆ける後ろ姿があった。#1 YANAGITA――もがきつづけた5年、「これが最後のシーズンかもしれない」と覚悟を決めたこともある。だからこそ、1打席、1球に熱い気持ちが宿る。全力を振り絞って躍動するそのプレーは、ひときわ頼もしく力強い。

勝利のためなら、何でもする

1打席目は勢いのある若手ピッチャーの直球、2打席目は救援に入ったベテランのスライダーを捕らえた。記憶に新しい2本の本塁打はいずれも配球を読み切って振りぬいたもの。大舞台でつかんだ先発出場のチャンスにも、柳田一喜は冷静だった。「いま、相手キャッチャーは何を思う。打席に立っている間、ずっと配球を考えています。時には、追い込まれたカウントから球種を張ることも。大学1年まで自分もキャッチャーでしたし、心理戦を楽しんでいるところもあります」と、平常心が生んだホームランを回顧する。

チーム内の役割を聞かれると、柳田は「自分はバットの人間」と即答する。試合の流れを呼び込む一打が打てればいい、チームが苦しい場面で自分にできることを問いながら打席に立つ。「もちろん試合を左右するホームランもその一つですが、こだわりはありません。単打でいい、ここは出塁、そういう場面ならば、相手のエラーでもいいんです」。打席を振り返るとき、チームを語るとき、温厚なその目元が鋭く引き締まる。

パナソニックに入社して4年間、チャンスをもらいながらも思うような結果が残せなかった。しかし、出場機会が減る中でも、代打の1打席にどう向き合って準備し、勝利に貢献できるか、ベンチでどんな声を掛けるかと考え続け、一つの答えが出た。「チームの勝ちにつながることなら何でもする」、そう語る表情には、苦しみを味わった選手ならではの気迫と、野球ができる喜びが入り交じる。タフな野球人・柳田のプロフィール、彼が初めてボールを手にした日は、約20年前にさかのぼる―。

楽しさ、厳しさとともに駆け抜ける

白球との出合いは小学1年、地元のソフトボールチームだった。兵庫県姫路市のマロンボーイズは、地域の子どもが大半加入する和気あいあいのチーム。「近所のおじさん、おばさんがグラウンドへの送り迎えをしてくれて、指導者も地元の方。週末はソフトボールというのが、地域全体のリズムのようなものでした」と柳田は振り返る。本格的にのめりこんでいくのは、試合に出場し始めた4年生から。守備も打撃もやればやるほど上達し、面白さが増していく。自然と平日も学校から帰ると皆が集まって練習するようになっていた。

5年生になるとショートでレギュラー、打順はクリーンアップの中心選手に。「地区の中では強いチームでした。僕が6年のときは、監督は父が務めていたんですよ。野球は素人でしたが一生懸命でした。周囲の保護者の方も含めて、そうして皆が応援してくれることに、感謝していました。自分一人では何もできないし、協力があって僕らはソフトボールができていると」。試合の結果うんぬんよりも、野球が地域を一つにする喜びを感じながら、少年は次のステージに進む。

中学生になり、ヤングリーグの姫路アイアンズに入ると、環境は一変する。監督は社会人野球の経験者で、「野球の基礎から勝負ごとの厳しさまで、徹底的に鍛えられました。自分の原点、核になる部分はここにあります」と、振り返る。1年の途中に内野手から捕手へとコンバートされ、視野も急激に広くなる。「チーム全てが見渡せる、自分が出すサインで試合が動くというのは、新鮮でした。同級生にいいピッチャーがいて、バッテリーに。のちに彼はPL学園を経て、社会人野球に進み、とにかくよく野球を語り合いました。自分ははっきり意見を言うタイプだったし、配球を、俺はこう思う、いや俺は……と、ぶつかり合いもしながら。彼に負けたくないという気持ちでライバル関係だった部分もあります」。3年生でキャプテンになり、チームスポーツ=野球への思いがいっそう強くなっていた。

これからも、決して忘れない一球

野球にのめりこむ半面、自分の中にはっきりとした将来設計もあった。早く就職をして、自立をする――工業高校進学を考えていた柳田に、監督の一言が待ったをかける。「お前は野球をやったらええんちゃうか。野球をすることも『恩返し』になる」と。父とともに始めたソフトボール、中学時代はチーム練習のない平日に、毎日トスバッティングやキャッチボールで支えてくれた母親がいる。加えて、スポーツを語り合う仲の良い姉の存在もあった。姉は将来を見込まれるバレーボール選手だったが、強豪校に入る直前に腰を痛めて夢を断念していた。「野球で、上を目指そう。誰よりも、そこで頑張ろう」、大きな岐路だったが、迷いを振り切って踏み出した。

ヤングリーグのバッティングを高く評価された柳田は、名門、神港学園の門をくぐる。すると、春の大会からスタメンマスク、夏の選手権大会で県予選を突破し、いきなり甲子園初出場を果たす。さらにこの大舞台で、1年生キャッチャーは4番を張る。「相手は桐生第一、正直言って足が震えていました」。初回、一死、ランナー1・3塁と絶好の先制チャンス。「野球人生で、一番記憶に残る一球」というその打席はスクイズの空振り、失敗。飛び出したランナーがアウトになり、三塁を狙った一塁ランナーも憤死した。あっという間のダブルプレーを、柳田はスローモーションのようにかみしめながら話す。「一球の怖さを思い知りました。チームは9-2で敗れて」。終わってみれば、3打数3安打1打点。しかし記録上に見えない空振りの1打席とともに、初めての夏が終わった。

1年の秋からサードへ転向。もう一度甲子園へと誓い、トレーナーとともにバッティング改造に乗り出す。軸の据え方、肩甲骨の動かし方まで全てを見直した効果は如実に飛距離に表れる。「神港のグラウンドは広くないんで」と謙遜するが、通算57本塁打の数字が強打者ぶりを物語る。しかし、2年生からは二度目の甲子園はならず、苦い思い出に包まれた。3年生はキャプテンになり、キャッチャーに戻った柳田だったが、チームづくりがうまくいかない。「一人よがりになっていました。プレーで引っ張ろう、自分が頑張れば皆がついてくるだろうと。振り返ったら誰もいなかった。最後の夏も、県予選の前にけがをして2週間チームを離れ、戻ったらみんながバラバラ。それが、自分の実力だったんです」。

「野球は教育として、人間形成のためにある」と、当時の監督の教えは胸に刻まれている。人としての自分を見直せ、向上心をいつも忘れるな――。「自分が正しいと思ったことが、正しくないこともある。突っ走るだけじゃだめなんだと分かりました。勉強につぐ勉強でした」と高校時代を総括する。一つ、付け加えたのは、「卒業してすぐ、後輩がセンバツに出場したんです。僕らは甲子園に連れていけなかったけど、自分のことのようにうれしくて」とニッコリ笑う。

チームの中に、自分ができることがある

野球で、大学に行く、そして神宮の舞台に立つ。しっかりと自分の姿を描いて、立命館大学へ。「悲願の日本一が合言葉でした」。1年の秋からはキャッチャーミットを置いて、内野に専念。バッティングが自分の役割と腹をくくった。2年の春はセカンドでレギュラーに、しかしリーグ戦の守備ではエラーを4つも……。神宮大会にも出場したが、「でも、ここでまたバントを失敗してしまったんです。それで、秋は使ってもらえず。でも、そこでバント練習や特守をしたおかげで苦手意識がなくなりました。3、4年ではエラーをしていないんですよ」と苦笑い。大学で心理学も学び、「自分をコントロールできて、力まないことが結果に結びついた」という。

大学時代の最高成績は、3年秋の神宮ベスト4。頂点が視界に入り、「いけるんちゃうか!」と活気づいたものの、夢は東洋大戦でついえる。チームの好成績が示す通り、主軸を打った柳田は関西学生野球連盟のリーグ打点記録やベストナインと輝かしい記録を残す。しかし、本人は何よりも「キャプテン」としての大学時代を誇る。「高校で失敗したし、最初は辞退したんです。でもキャプテンはお前だと皆に言われて。仲間に恵まれました。試合に出ている人、出られない人、皆ととことん話をして、いいチームができた。キャプテンで言えば、高校とは真逆です」。

熱心な大学野球ファンが、WEBに当時の柳田の特徴を記している。甘い球を見逃さない勝負強さを「独特の威圧感」と評し、最も素晴らしいのは全力で走る姿勢とたたえる。「高校までは盗塁もしていたんですよ。大学では自分の足は通用しないと割り切りましたが(笑)。でも、とにかく全力で走る、諦めないという意識はずっと持っています。守備側から見たら、凡打でも走られると、プレッシャーになるもの。少しでも勝ちに近づくなら、何でもしますよ。重い空気感を変えるために、アウトと分かっていても、ヘッドスライディングすることもあります」。今も変わりないプレースタイル、一打、一球に後悔をしない柳田の信念が垣間見える。

日本一、背番号1の誓い

2015年シーズン、チームは新人11人を擁して一気に若返った。「5年前、自分もそうして入ってきました。大学3年のときから、パナソニックに熱心な誘いをいただいて、本当に感謝しています。でも、ハイレベルな社会人野球に対応できず、思うような結果が残せなくて」と弱気になったことを打ち明ける。「一時は、イップス(Yips:精神的な要因でスポーツ動作に支障をきたす運動障害)になってボールの投げ方が分からなくなったことも。本当に序盤は苦しいばかりの思い出です」。3年目の秋、両親に告げたことがあるという、「もう、今年で野球は終わりかもしれない」。返事はシンプルだった。「それならば、やりたいように思い切りやったらいい」、その言葉が魔法のように背中を押し、調子が上向く。柳田は「開き直りも大事だと分かりました。自分がやりたいことって何なのか。そう考えたら覚悟が決まった」と乗り越えた壁を思い出す。


「飽くなき向上心」柳田 一喜

2015年の都市対抗野球で、柳田は補強選手として日本新薬に加わり4番を打った。「行かせてもらうからには何か残して帰りたい、また、パナソニックには何かを持ち帰りたいと思っていました。グラウンド環境など決して恵まれてはいない中で頑張る、新薬さんからはハングリーさと一球への集中力も学びました」と振り返る。森史朗、梶原康司と、打の軸がチームを去ったパナソニックだったが、「中堅の自分はサードをしっかり守り、チームを引っ張らないといけない。一方で、若手に負けられないし危機感も持って、チームのために何ができるか考える。仕掛けるべきところは、チャンスメイクに徹しますし、点を取りにいくときは思い切って勝負します」と前を向く。

柳田が背負う「1番」には強い思いが秘められている。「松下電器で活躍した神港学園の先輩、平山嗣人さんの背番号です。先輩が何番をつけておられても、それを引き継いだと思います。きっと、見ていてくださると思いますし、しっかり結果を残したい」と意気込む。「日本一になる、そのために頑張るだけ」と柳田は言い切った。

(取材日:2015年9月2日)

「飽くなき向上心」を胸に闘う。
どんな状況下でも諦めない、何かできる――
絶対に後悔のない1打席、1球が柳田のプレー。
強靭な信念と、覚悟が駆ける。

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