迷いのないフルスイング。鋭く伸びる打球で、チームに勝利を引き寄せる。2011年にルーキーとしてバッターボックスに立ってからの3年間、常に打線の主軸を担ってきた田中。
周囲の期待に翻弄されず、決めたことを貫く心根の強さで、狙い通りに球を運ぶ打者に育った。自信と志が語る。「これからが、もっと面白い」。
兄たちの背中を追いかけ、野球の基礎を培う
豪快なバッティングでボールを遠くへ飛ばし、さっそうとダイヤモンドを駆け抜ける。チームのムードメーカーともいえる田中はひとたび話し始めると、思慮深く、分析にたけた一面をのぞかせた。同期・秋吉(2014年 東京ヤクルトスワローズへ移籍)と投打でチームを盛り上げた3年間、しかしそれに満足はしていない。2014年以降は、自らの野球を「深化」させていく新たなステージと位置付ける。
幼いころは、兄弟で競い合うように野球をしてきた。3兄弟の末っ子。少年野球が盛んな佐賀市で、田中は小学1年生の時に野球を始め、3年生から上級生に混じってAチームの試合に出ていた。4、5年生では佐賀県No.1になり、茨城県水戸市で行われていた全国大会にも出場した。6年生でキャッチャー、そしてキャプテンに指名され、ますます野球にのめりこんでいく毎日を、「仲間と一緒に球を追うことに夢中でしたね。ただ、最終学年で全国大会に届かなくて……」と懐かしんだ。
市内の中学校は強豪ぞろい。佐賀市立昭栄中学校の野球部は、地域で名をとどろかせていた監督が指揮を執るトップレベルのチームだった。1、2年時は下積みの日々。試合に出ることはできず、ひたすら厳しい指導に耐えた。最上級生になり、春の地区大会では優勝を飾るものの、全国大会への出場権をかけた戦いではことごとく敗れた。「キャッチャーというポジションや打順など、果たすべき役割を十分に分かっていなかった。もっと学ぶべきことがあったのに」と自身を客観的に振り返った。
高校は、野球を中心にしていくか、勉強を軸にしながら野球をするのか。2人の兄が選んだ異なる進学先を間近に見て悩んだ。中学2年生からは、部活を終えると塾にも通っていた田中。2歳上の兄(当時、高校1年生)から、「うちの内田監督は社会人野球出身で、指導が"すごい"んだ」と教えてもらった。話から伝わってくる「熱」が、そして「強くなる野球」が次第に目標となっていった。目標を定めた田中は受験勉強に励み、県内トップの佐賀県立佐賀西高校への進学を果たした。
殻を破り、「考える野球」を学んだ高校時代
佐賀西高校の野球部員は、13人と少なかった。進学校ならではの悩みだ。体力と根性だけでなく、時間に左右されない自己管理能力が必要と思い知った。田中は1年の夏から頭角 を 現し、ベンチに入る。ところが、2年の夏、新チーム最初の公式戦で負けを喫した。「さぁ、これからだ」と思った矢先のこと、この敗戦が監督の心に火をつけてしまっていた。「カンカンに怒っていて……。練習にも来てくれず。自分たちで練習内容を考え、どうしたら監督に認めてもらえるかを話し合ったりして……」と当時の苦い思い出をこぼした。
日々の練習時間は2時間程度。県内の強豪校と対等に闘うために、いかに練習の質を上げていくのかを全員が理解していなければ、甲子園は目指せない。「行動一つ、取り組む姿勢に意味があるのだと、苦しむ中でやっと理解できました。それを態度で表すことができるまで、監督は厳しさを突き通していたのだと思います。卒業後、『お前が一番問題児だった』と言われて。我が強く、殻が厚かったから」と、悩みぬいた心中を明かした。
チームは心身ともに強くなり、2年秋の県大会で優勝、九州大会でベスト8と順調に勝ちを経験した。3年次には、春の大会、NHK杯、全ての県大会を制覇。監督が示す「考える野球」に徹した結果だ。「社会人野球で対峙した経験をもって、僕ら一人ひとりをていねいに導いてくれました。アドバイスも実践に基づく具体的なものでした」と、知識をふんだんに吸収した高校時代をそう表現した。「監督には卒業後もバッティングを見てもらい、行き詰まった時に電話をすれば、動画でもアドバイスをくださった」と、恩師との絆を語る。
高校最後の夏はベスト4で、甲子園への夢はかなわなかった。小・中に続き、大きな目標を成し得なかった田中は、意地を見せる。東京六大学への挑戦だ。この時には、すでに「一度決めたことはとことん突き詰める」という信念が備わっていた。「自分が納得できる道はこれしかない。必ず六大に行くから、1年間勉強する」と親に伝え、浪人生活を選んで大学受験に挑み始めた。予備校生活は、不安が心をよぎる。それでも「大学で野球をするため、今やるべきことは勉強だ」と意志を貫き、目の前の課題と向き合った。翌年、見事六大の3校に合格し、立教大学を選んで入学した。
日本代表となり、プロへの夢を追いかける
同級生はすでに大学で1年野球をしている。「推薦枠組」の同期は、先行して部活動に参加していた。田中はいやおうなしに壁を感じた。上下関係とライバル心がむき出しの中、野球部を去る者も少なくない。ただ、田中はひたすらに「野球をする」ため、共に闘う仲間を大切にした。初めての一人暮らしも楽しみながら、適度に遊びを入れるバランスもとれて、気づけばチームに溶け込んでいた。
2回生になり、田中はA戦に3番レフトとして出場機会を得た。そこで連続して結果を残し、レギュラーの座をつかんだ。「運がむいただけ。同期や先輩を差し置いてレギュラーになったのだから、気を緩めず彼らに恥じないプレーを」と今まで以上に自分を戒め、打席に立った。そしてデビューシーズンで打撃十傑入りを果たし、レギュラーの座を不動にした。
田中は3回生で日本代表に選抜され、「斎藤祐樹、大石達也、野村祐輔などが一緒で、みんな確かな実力があって」と、自分にも初めてプロへの道が開けたと感じた。ところが「日米野球の代打で3打席ノーヒット」と、苦くて痛い思い出を話してくれた。どんな場面でも結果を出し続ける者こそが代表選手と知り、バッティングコーチの指導を謙虚に受け止め、自身の可能性を最大限に高めることに注力した。
4回生時はキャプテンを引き受け「主将らしいというよりは、プレーで結果を示し、みんなを引っ張ろう」と、日々の行動も、夜間の自主練習も、それまでのスタイルを崩さずに継続して取り組んだ。結果、六大学のベストナインに選ばれ、リーグ戦後に再び日本代表の選考合宿に招集される。「スタメンに入り、プロの扉をたたく」と勢い込んだものの、選考で最終メンバーからはずれた。この時ばかりは結果が受け止めきれず、大きく動揺した。焦りをどうにかキャプテンとしての意気に替え、大学生活を駆け抜けるのが精いっぱいだったと言う。
野球人として生きる決意、新たなやりがい
「正直、社会人野球のチームに詳しくなくて」と、企業選びに迷った心境を吐露する。周囲に相談をし、会社の一員として誇りを持ってプレーしていくことを考え、パナソニックに入社した。年齢や経験の幅が大きい社会人野球は学生と違い緊張もしたものの、ベテラン選手たちが面倒を見てくれてすんなりとなじむことができた。
「1年目の都市対抗予選からスタメンで出していただき、日々やりがいを感じていました」と3年前を思い起こす。期待を背中に感じながらバッターボックスに立ち、ベテラン選手たちと「勝ち」へのリズムをつくるのは、心地よかった。2年目には、チームはJABA大会(九州大会)で優勝した。田中は打率6割で首位打者、MVPを獲得する活躍を見せ、大阪府ベストナインにも選出された。
社会人野球選手として結果を出すために、1年目から遠慮なくトレーナーに相談し、ウエイトトレーニングにも工夫を重ねてきた。体幹を鍛え、持ち味として「軸がぶれないバッティングを確立したい」と、高い目標を掲げて真っすぐにチャレンジしていくことが、今自分に課すべきテーマだと語る。そして、「これからは自分の考えに固執せず、周りからどんな役割を求められているか"考えていくこと"を楽しみながら、チームの勝利に貢献したい」と、自身の変化を感じ取る。
浪人をいとわず、自分と戦ってきた田中は「目標を持って努力を重ねれば、必ず結果はついてくる」ということを知っている。「自分の強みは、周りに流されにくいこと」と分析し、目標を決めたら、最短距離を考え突き進むのが田中流の生き方だ。最後までやり通してみて初めて、自分が納得できる結果が得られる。社会人野球において、田中はまだスタートを切ったばかり。これまでに積み上げてきたものを、そしてこれから積み上げていくものを、爆発させる瞬間を楽しみにしたい。
実力以上はない。自分の経験の積み重ねでしか結果は出せない。
大学受験、プロ志願のターニングポイントで培った胆力は人並み以上。
ボールの軌跡は、思考し努力した時間と比例し伸びていく。