「まず、目先の一戦。頂点を意識するのは、決勝にいってからでいい」。投手最年長となった2016シーズン、四丹健太郎は変わった。「10年目にして、初めてベテランになったのかもしれません。これまでは自分のことだけで、目いっぱいで」と語る。目前に迫る都市対抗野球本大会、グラウンドが夕暮れに包まれる頃、四丹はようやくスパイクを脱いだ。誰のせいにもしない、万全に自分を調整する、後輩投手の状態にも目を配る。経験豊富なセットアッパーが、静かに燃えている。
練習の中で、経験を伝える

2015年 登板
シーズン前、新監督の言葉が胸に刺さった。「昨年はどうだったかと梶原監督に聞かれて。お前ら、チームの不振を首脳陣のせいにしていなかったかと問われました」。結果が出ないチーム、四丹自身も納得のいかないピッチングにあえいだ2015年。「その言葉で、初めて気がつきました。自分のことしか考えていないと」。若返ったチームに、メンタル面や試合で結果を出すために、普段何をしていくかを積極的に語り、チームを底上げする役割を自覚する。
絶対にフォアボールで自滅をしない、それが強みだと四丹は言い切る。「僕が若い投手に教えられることは、そこだけです。打者でなく、カウントと勝負するようではダメ。ストライクがいつでも取れる練習をと、アドバイスしています」と、自信は揺るがない。しびれるような場面でマウンドに上がれば、おのずと緊張もする、「だからこそ、練習から一球ずつ、全球種でストライクを意識する。コースギリギリを狙う練習も必要ですが、投手はとにかくストライクが入ってこそ」と強調する。
「基本、サインはキャッチャーにお任せです。嫌なときは首を振るからと」。そう語る四丹は、球種一つひとつの質にこだわる。「イメージどおりに打ち取れば、自分も乗っていける」と、練習と試合をリンクさせる。特に今年から意識するのが打者の目線。「バッターボックスから見て嫌なボール、とは。実は、少年時代から僕はバッティングが大の苦手で。全然楽しいと思わない人だから、バッターの感覚って分からないんです」と包み隠さず話す。
穏やか、のびのびの少年野球

「昔の試合は、細かく覚えていない方で。忘れられない一球とか、ないんですよね」とほほ笑む四丹。中学卒業までの野球経験は、地域の小さな町民グラウンドに詰まっている。出身は広島県の北部にある西城町(現、庄原市)、小学校4年生でスポーツ少年団の西城リトルに加入した。「名前はリトルですが、リトルリーグじゃなくて軟式。きっかけは、同じグラウンドで土曜日に練習しているサッカーの見学に行ったことでした。ちょうど僕はJリーグ世代。サッカーは60人の大所帯で、野球はたった10人。一緒に見学した父親が、野球の方にしろって言うので」と、気軽に始まった。
「入って2日、いきなり背番号8を渡されて、センターで試合に出たんです。きっちりエラーをした記憶も。まあ、小さな地区の野球で、県大会が目標でしたが出たこともないですしね。実はボーイズリーグの存在を知ったのは高校生になってから。幼少からすごいチームでやってきた人に比べると、僕の場合は全くの遊び。投手でしたが『魔の4回』ってのがあって、どんなにいい投球をしていても、4回にすごく点を取られるんですよ。でも前に飛ばされたらエラー連発だから、僕だけのせいじゃないんですよ」と、のどかだった頃を笑顔で振り返る。

地元の西城中学校に進んで、野球部に加入。「小中学校ともに、エースで四番で主将。よくいるでしょ、弱~いチームに。雑草だらけで狭いグラウンドは、何とか内野のダイヤモンドが取れるぐらい。練習着は体操服だし、ベースはペラペラでポンと置くタイプ。監督は学校の先生で、週に1回現れるだけ」と、その緩さは相当なもの。唯一、野球を教わる機会は、土曜日に使う町民グラウンド。そこで顔を合わせる役場のチームに名門校のOBがいて、手とり足とりでコーチをしてくれたという。
広島の古豪から、東都の名門へ

そんな境遇でも、見ている人は、見ているもの。野球は中学で終えて、地元高校へ進学と決めていた四丹の元に、強豪校から複数のオファーが舞い込む。「あれ、俺は野球ができるんかな? やらなあかんあのかなと」、素直な思いを振り返る。中でも足しげく通ってきたのが、広島県の古豪、崇徳高校の監督だった。「広島市内から2時間かけて4回も来て、熱心に誘っていただいて」。186センチの長身、ストレートしか投げない粗削りな投手が、高校で初めて硬式球を手にした。
「うまくなっていく実感がありました。野球を本気でやったのが初めてで、硬式のスピードも新鮮でしたし、変化球も教わって。でも練習は厳しいし、ライバルも強力だから必死でしたね」と振り返る。素質を買われて、夏から1年生でただ1人のベンチ入り。夏の県予選で、実戦登板もして一気にエースかと思うところだが「打って投げられる先輩の2番手。僕は打つのが全くダメで、不動の9番。高校全部でいうと、2年夏の県ベスト8が最高成績です」と、あっさり総括してしまう。

パワーピッチャーだったと思い出す高校時代、印象に残る試合を問うと、延長13回、3-4サヨナラ勝ちの試合を挙げた。「当時はコントロールが悪くて自滅するタイプでしたが、3年のときに170球を投げ切りました。とにかく真っすぐと、ガンガンいって。うれしかったですね」。その後の進路は、監督同士のつながりが深い亜細亜大学が既定路線だったが、どうも気が進まない。「崇徳に入るのが決まった中学3年のとき、大学の春キャンプに2泊で連れて行ってもらったんです。それが強烈。アップだけで2時間、中学生にも容赦なしですよ。また、亜細亜大学にいったOBがリーグ戦を終えて、高校にコーチで帰ってくると、鬼のように厳しい。嫌だ! と親に言って、進路面談でもはっきり断りました。地元、広島の大学で野球をしたいと話したら、高校の監督が『それなら、野球やめろ』って言う。『じゃ、やめます』と返したら、席を外せと」。
やめる宣言……

監督と親に説得された末に、「絶対にやめると思う」と一言を残して亜細亜大へ。ところが、年明けに一番乗りで入寮して練習参加をすると、不思議なほどに球が走る。「行くからにはと意気込みもありました。むちゃくちゃ調子が良くて。2週間ぐらい投げていると、当時のコーチが『すごいよ、こいつがエースだよ!』とか周囲に言うし、モチベーションも上がるじゃないですか。で、勘違いして投げていたら肩がぶっ壊れて。同級生が入寮してくるころには、僕はもう故障していたんです」。
肩の症状は深刻で、そこから3年まで一度も投げていない。「オープン戦も含めて、一度もなし。大学伝統の縦縞のユニホームに袖を通したこともなく」。できるのは走りこみだけ。あとは、裏方のスコアラー、用具の手入れやグラウンド整備の草抜きといった裏方仕事。チームのキャンプ期間も居残って、外野の芝生を張り替える。「業者さん頼みではなく、亜細亜の場合は芝生に入れる土から自分で作る。きつかったですけど、プレーできなくても、僕にはやめられない理由がありました」。

高校で主将だった同級生が一緒に亜大に入ったのだが、1年生の5月に退部。「続く後輩のことを考えても、崇徳が2人そろってやめるわけにいかない。野球はできなくても、卒業だけは」。才能ある選手が集まる東都の名門、「年下にも、こいつに勝てるだろうかって子がゴロゴロいるし、育っていく。それを横目に自分はと言えば、大丈夫かもとブルペンに入っては、やっぱり痛いの繰り返し。病院で診てもらっても、メスを入れる箇所はないと言われ原因も分からない。ひどいときは投げても5mほどのところにポトってボールが落ちました」。どうせ、このままならいっそのこと……。
無名の剛腕、4年デビュー

「3年の夏前、鮮明に覚えています。キャッチボールを始めたときです。もういい、どうせ痛いし壊れたらいいと、相手に思いっきりバックしてもらって全力で放りました。アップもせず、激痛を覚悟して。治らないなら、野球なんかできんでいい! と投げたら、痛くなかった。もう一度投げてみても、痛くない」。この一球で四丹の大学野球が始まった。初めて夏にキャンプに同行し、秋にはシートバッティングで投げた。打者に対する久しぶりの感覚、投げ込んだ一球は142キロを計測。「高校時代の最速は138キロでした。4キロも速くなってる」。
大学4年、春のリーグ第2戦。先発マウンドに"4年の新人、四丹"が立った。戦国東都にあって、日大は屈指の強豪。「初めて背番号をもらいました。今と同じ21番を付けて初先発。真っすぐとフォークばかり投げて完封しちゃったんです。日大は長野久義選手(現、読売ジャイアンツ)を擁す打線でしたが、急に現れた僕に『誰だ、あれ?』って感じだったでしょうね。その試合では、146キロが出ていたそうです。次のカードも先発し、完投はできなかったのですが勝ち星がついて」。
続く3戦目は、青山学院大に初回から2本塁打を浴びるなど、4回8失点。「監督から、成長するために、このゲームはお前にやると言われ、もっとやらなければ」と奮い立った。その後、四丹は中継ぎにシフトし、亜大の快進撃を支える。チームは秋のリーグ戦優勝から、明治神宮大会で頂点に輝いた。明治神宮では、準決勝に先発し「2-1で負けている場面、4回で降板しました。スタミナ切れでしたし、明治神宮大会は投手も打席に入るので、打が期待できない僕に2打席目が回れば……交代で。あ、そうそう一打席目は、見事に三球三振でしたよ(笑)」。
先発、抑え、どこでも投げる

2014年 日本選手権 準決勝
3年時の進路相談は、実績の一つもなく「広島に帰って野球ができたらぐらいでしたが、4年にバリバリできて目の前に違う道が。いろいろな選択肢を監督から挙げていただき、パナソニックへ。オープン戦で投げさせてもらったとき、北口さん(現、部長)にオファーをいただきました。夏場に練習参加したときにも、いいチームだなって。何より響きが良かったですし、パナソニック! って」。
これまでで最も印象に残るシーズンは、2011年。「ちょうど今年と同じように、前年の都市対抗出場を逃していましたし、2011年ももう負けられない土壇場から、ギリギリで出場をつかんだんです。また、自分自身は初めてフル回転できた年。シーズンを終わってみたら、投手陣で最多のイニング数を投げていました。入部からずっと、誰か主戦投手がいて、自分は抑えでも中継ぎでもの形でしたし、一番投げられたことは自信になりました」。負けられない試合、さらにピンチで出番が来れば、もう強気しかないのだと四丹は語る。「マイナスのことは考えない。甘いボールもあるでしょうが、もうその瞬間は打ち損じてくれ! って願うだけですよ。今年の都市対抗予選も同じように、いきなり負けましたが、経験している分だけ引き出しがあるし、強みを生かせました」。
自分は壊れない投手と、四丹は断言する。「社会人で、一度も肩やひじを故障せずにやってこられたことは僕の強みです。テイクバックがきれいじゃないのは分かっていますが、これを変えないのが良いのかもしれない。もう大学で味わった怖さは全くありませんし、いつ、どんなときでも自分は投げられる状態にあります。とにかく、マウンドに立っている姿を見てほしいですね」。自身の社会人最高成績は、日本選手権ベスト4。「あの選手権は全試合で投げて、最後も僕が投げていて、負けてしまいました。同じような場面で、次は勝ちたいですね」とリベンジを誓った。
「どこかに、甘さはなかったか?」
投手ミーティングの座で、声を上げるベテラン投手。
調子がいい悪いじゃない――、
どんなときも強気に、全力でマウンドを蹴る。



