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ピックアップフェイス

大江 伸宏

バッターボックスでは誰よりも粘り強さを見せていく。自己犠牲を払い打線をつなぐ。それが自分の役割だと疑わない。
苦しいことが「9」あっても、試練の先にある「1」の喜び。
それが都市対抗優勝だと信じ、大江は25年にわたる野球人生を賭けて挑み続ける。

両親に支えられ、野球に没頭

「あの時、親に『続けなあかん』のひとことで止めてもらわなかったら……」。と、大江は少年時代を振り返る。実直な人柄そのままに、「これまでずっと好きな野球ができているのも、今のチームにいるのも、あの時が岐路だった」と話す。それは、中学2年の冬に初めて「もう、野球をやめたい」と両親に訴えた時のことだった。

野球を続けていくには欠かせない家族のサポート。今、両親に「続けていてよかったやろ?」と問われると、黙ってうなずくことしかできない。「僕から野球をとったら、何も残らんと思っていたんでしょうね」と笑ってみせた。ことあるごとに両親に、そして恩師への感謝を口にするのは、企業チームの解散に二度直面し、野球人生の危機にさらされてきたからこそ。野球のユニフォームを着ることの充実感は、何ものにも代えがたいと大江は言う。


門真市出身。小学校時代は地域の少年野球チームでピッチャーを務めた。中学生になると名門硬式野球チーム、大東畷ボーイズに入団。「同期は各地からの精鋭約40人。中1で身長が180cmの選手もいて。こんなパワーのあるやつらにはかなわん、ここでピッチャーは無理や」と、当時の気持ちを素直に語った。練習から帰宅するのは毎日22時を過ぎ、学校生活との両立に苦しんだ。

仲間は次々とチームを去り、卒団時に同期は約半数に。大江は厳しい練習に耐え抜くも、3年間公式戦への出場は果たせなかった。バットを振って芯に当てても飛距離が伸びない。周りと比べると線が細く、パワー不足が原因だと自己分析をした。「絶対に見返してやる」とみなぎる闘志を胸に、自分にとって最良と思える高校を選択した。

プロに挑む厳しさを知る

野球推薦で関西創価高校へ。1年の夏からは寮に入り、通学に掛けていた時間をトレーニングに振り替え、野球に没頭していった。「1年は体を鍛えてパワーを付け、2年でベンチ入りを果たしてレギュラーを取る。3年はプロへのアピールや」と、自身の目標を設定。筋力を付けていくウエイトトレーニングが功を奏し、打球の飛距離が面白いように数字となって表れてきた。苦しみこそが成長の証であると知ると、つらさを乗り越えることに意義を感じられるようになった。

それでも、休みに地元に帰って友だちに会うと、弱い一面が出てしまう。"普通の学生生活"に後ろ髪を引かれ、1年の冬に再び逃げ出したくなった。その時もまた、親と監督に「あかん」と一蹴され、野球を続けることになった。「大人たちは、子どもが抱える感情なんて全てお見通しだったんですよね」と頭をかく。2年の冬からは最上級生にもなり、心から野球を楽しむようになった。

チームの中では、豪快なプレーでみんなの気持ちを引っ張るキャラクター。野球にのめりこんでいく自分自身を前面に出すようにもなった。「面白半分でピッチングもしていたんです。すると、ピッチャーで使ってもらうこともあって。チームも勝てるようになってきて、自分の力と役割に自信が持てるようになりました。3年の春にはプロ入りも考えるようになって……」と、高校時代を懐かしむ。

チームは団結力を強め、「今の実力ならば」とほのかに甲子園出場の期待を抱くも、最後の夏は、準決勝で延長サヨナラ負けを喫した。甲子園出場というキャリアを得ることができず、プロ入りは無理だと自覚して「社会人で3年は鍛錬してからプロへ」と目標を設定し直した。プロ野球選手になる夢を現実にするため、自ら厳しい道のりを選んだ。

二度のチーム解散、執念の社会人野球

大江が社会人野球を初めて観戦したのは高校2年の時、日本選手権での松下電器の試合だった。当時、金属バットを使った激しい弾道、パワフルなプレーに圧倒され、強い憧れを抱いたと言う。大卒選手を中心に構成する松下電器からは声が掛からなかったが、4社から誘いを受けてミキハウスを選んだ。新設されて3年目、これから成長していくチームだった。「最新の設備と充実した環境の中で、思う存分プレーをし、力を養いたいと思った」と言う。

しかしながら、チームに入って驚いた。「こんな中でやっていけるのかな」と。「ボールのキレが別次元で……。こんな速くて重い球、打たれへん、打席にも立ちたくない」と、足がすくんだ心境を再現してみせた。代打で出たら三振、代走で出たらけん制でアウト、守備ではエラーと、1年目はミスの連続。「焦りは自分の弱さ、練習量で克服するしかない」と、コーチの指導を受けながらバッティングのフォームを刷新し、社会人野球のレベルに順応していった。


「レギュラーになるまでに3年を費やしました」と罰が悪そうに告白し、続けた。「入社5年目にもなると、先輩に『お前、もうプロ目指してないやろ』と問われて、立ち止まりました。『チームのことを考えていく年齢やからな』と」。その言葉で大江は、「これからは、チームプレーを最優先に野球をするんだ」と、意志を固めた。思っていたよりもさっぱりとプロへの思いを断ち切ることができた。志を共にする結束力、会社を背負って激闘するこの世界で新たなやりがいに出合っていた。

2004年、経営情勢からミキハウスは休部を発表。大江は移籍先に東京のシダックスを選んだ。シダックスは、野村克也氏が監督兼ゼネラルマネージャーとして指揮を執り、チームは大成を遂げていた。独自の理論は、選手たちに社会人、野球人として、個を高め揺るがぬ力を身に付けさせていた。バッターボックスに立つには、高いパフォーマンスを維持できることが大前提。1年目の大江は常に結果を問われる厳しい環境の中、秋の社会人野球選手権でレギュラーの座をもぎ取った。しかし翌年の監督退任、さらに次の年にはチームの解散という運命に見舞われ、大江の野球人生は再び激動する。

パナソニックで恩返しを

数社引き合いの中で、長年焦がれていたパナソニックから誘いを受けた大江。「門真に帰ってもいいかな」と周りに問うと、誰もがうなずき、母は「えらい遠回りしたね」とねぎらい喜んでくれた。パナソニックのユニフォームに袖を通すのが誇らしくも、28歳の大江はベテランたる風格を携えてチームに合流した。

大江の社会人としての責任感が、執念深く、冷静なプレーに表れはじめ、チームに溶け込んでいく。パナソニック野球部には都市対抗での優勝経験がなく、2010年に都市対抗地区予選で敗退した時は、大江もまた苦しみ、悔しがった。「どんな苦境でも、泥臭くあきらめずに前進することで、道が開けるはず」と、危機を再生の糧にするべく奮起した。

大江は自分の役回りを「ユーティリティープレーヤー」と表現する。「どんな場面でも、与えられた仕事を理解し、あらゆる引き出しをもって応えられるように準備は怠らない」と、経験から得た自身の強みを語る。「プロを目指す若手は、自分自身のためになる練習を極めてほしい。チームも大事だけど、まずは自分を見つめて可能性を探るべき」と後輩へのアドバイスを口にした。「僕がプロをあきらめて気持ちを切り替えられたのは、とことん自問し、納得できたから」と穏やかに言った。

三振してでも球数をかせぎ、大舞台で自分を犠牲にするプレーを選ぶようになったのは、3、4年前からだという。どんな打席でも、巡ってきた試合の流れを冷静に捉え、チーム全体、ゲーム全体のことを見渡せるようになった。「このチームで都市対抗優勝を果たすために、どんな役でもやり遂げますよ。野球人生の最後が胴上げで終わることができれば」と豪快さと優しさの入り混じった笑顔で言った。

チーム・パナソニックは、まだまだ発展途上。若手もベテランも黒獅子旗(=都市対抗優勝)という志を共にし、確実な一歩を重ね続けている。数々の苦難を乗り越えた先に、「チームに、地元に恩返しができた」と最高の結果を紡ぎ出して宙を舞う、大江の姿を想像した。

(取材日:2013年12月17日)

苦しい時は、目標を定め直して、少しでも前に進む。
今、大江は「都市対抗優勝」を目標に野球人生の集大成に臨む、
自分の経験、そしてチームの可能性を信じてバッターボックスに立つ。

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