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ピックアップフェイス

三上 恭平

「ピッチャーの特長を引き出したい」。捕手は一人ひとり「色」があると言われるが、三上恭平が一番に語るのは投手との信頼関係だ。調子がいい時は何を投げても抑えられるもの。ピッチャーのコンディションが悪い時にこそ、何を引き出せるか――。「ここ1年で成長したと思えるのが配球。守りでチームに貢献したい」と力強い口調に自信がみなぎる。

「負けず嫌い」の少年時代

野球との出会いは、小学3年生で加入した軟式チーム、地元の鬼石リトルミカボだった。友達に誘われて始めた野球、「6年生から本気になりました。試合中に泣きながらマウンドにいたのを思い出します。エースだったのですが、どんなに打たれてもベンチから途中交代の指示もなく、打たれっぱなしで、悔しくて泣く。負けず嫌いの性格で」。今の冷静な三上からは想像できないが、感情を表に出す少年らしい姿があった。初めてキャッチャーマスクをかぶったのはボーイズリーグのオール前橋ボーイズ。中学2年生の秋に自分の年代にキャッチャーがおらず、渋々座ったのが始まりだった。「肩が強いからという理由で。ワンバウンドはスルーするし、サインも何も考えてなかったですね。のびのび自由にやっていました」。

実はボーイズに進んだ三上が買ったグラブは、外野用。「当時は打撃が楽しくて、投手経験を隠していたんです。でも、誰か投手はいないかとなって。あ、僕、投げられますと」。さらに、キャッチャーがいないとなって、必要なポジションを埋めることに。このままでは、と自ら仕掛けた三上。「小学校の時バッテリーだった一つ下の捕手を、僕が勧誘してボーイズに引っ張りました。それでピッチャーに戻って。その子は結局高校も一緒だったので、8年ほど組みました。でも、リトルもボーイズも、全国大会どころか予選の決勝にも行けなかった。強くなかったですね」と当時を思い出す。

その頃の記憶は、練習のシーンばかり。「中学の頃。野球が変わってきている、パワーの時代だとコーチが言っていて。中田翔さんが高1から活躍していた頃で、僕らもトレーニングばかりしていました。健大高崎のグラウンドを毎週火・木曜に使わせてもらってウェイトや、3クッション(立って座ってのセット)を300回。最後はみんなでランニングをして。自主練習だから集まるメンバーは決まっていましたが、僕はそれを1回も休みませんでした」。高校からが、本格的なスタート。ウイニングボールをミットに収めた手応え、あるいは「しまった!」と悔いる一球。三上はマスク越しに、高校・大学でしびれるようなゲームを経験する。

感動の瞬間! その時……

群馬県の名門、桐生第一に進学。「オール前橋の代表に練習見学だと連れていかれ、そこで桐生第一の福田治男監督から誘われました。ところが入ってみると、いきなり監督に『お前は、ピッチャーじゃないよ』って言われました。全国中学ベスト4のピッチャーがいて、その変化球がすごくて。群馬のボーイズ代表でキャッチャーを経験していたこともあって、迷わずそっちへ」。高1からの活躍を夢見て名門に入った三上だったが、当時の桐生には暗黙のルールもあったという。「1年は3年と一緒の試合に出られない。練習も一緒にしないんです。だから、夏の大会が終わると、さあ、次は自分らの出番だとみんな目がギラギラしていました」。

野球少年にとって憧れの甲子園。三上は2年生の夏、銀傘の下に座った。しかし、高校時代の思い出をと問うと、意外な場面を回想し始める。「一番の思い出は、その県予選なんです。準決勝。3-2で勝った試合ですが、今でも忘れられないパスボールをやってしまって、スクイズで1点取られて。マウンドに集まると、3年の先輩に『止めろや!』って怒られました。なんとか勝ちあがったのですが、あのエラーは忘れられない」と振り返り、さらに甲子園をかけた決勝を語った。

県予選決勝の最終回は2-1のリード。ピッチャーも投げ急いだか、先頭打者を四球で出し、送りバントで最後の局面は二死1・2塁のピンチ。「相手のタイムで僕らもマウンドに集まりました。先輩の投手は余裕で『三振取ったらマウンドに走ってこいよ』って。追い込んで、最後の球はアウトコースいっぱいの低めでした。いいボールすぎてぼう然、振り返ったら審判がまっすぐ手を挙げていました」。見逃しの三振、ミットを止めたまま動けない三上。先輩から指示を受けていた感動のシーンは演出できなかった。「マウンドに行くの、忘れていました」と笑う。

一球の重み。まさかのコンバート?

進路相談が始まった時、三上が将来像を重ねたのは高校で出会った一人の先生。「整筋という体の動きに詳しい方でした。打席に入る前は、まず左足首を3度回して、次に右足首。最後に屈伸をして体の裏を伸ばせと。これは今も続けています」。地元で理学療法が学べる大学を、と希望したが野球部のルールで進学は監督との相談。「判を押してくれなくて。たまたま上武大学の谷口英規監督が来て、うちにもそういう学科があると誘ってもらいました」。3年生夏の県大会はベスト16。三上は翌春に上武大へ進み、関甲新リーグの一員になった。

高校の先輩でプロ入りした上武の正捕手、松井雅人さんとちょうど入れ替わり。三上は、1年目から、トップチームに入る。秋からレギュラーに座った三上が、苦い思い出と振り返るのが3年の大学野球選手権だ。「愛知学院大との試合で配球ミスをしました。一塁があいている場面。相手は左打者。右のサイドスロー投手に要求したのは内角真っすぐのボール球。それがストライクで入ってしまい。監督から、許さん! 2人の意思が合っていない。お前はクビだと言われて」。谷口監督の逆りんに触れ、ピッチャー転向を宣言された。

野手の練習メニューには入るなと命じられ、来る日も来る日も投手練習が続く。当時の上武は160人の大所帯、「キャッチャーだけでも10人以上がいる中で安泰はない。慢心はしていなかったつもりですが、一球の重みを谷口監督から教わりました」。投手メニューをこなしてから、夜間の自主練習で初めてバットを持ち、キャッチングの練習をする。再びチャンスがもらえたのはリーグ戦の最中だった。監督に投手メニューを告げられてから、2カ月近くがたっていた。

同僚とともに、六大学・東都に挑む

最後の大学選手権は、大学の4年間で最も濃密な時間だった。関甲新リーグにとって、歴史ある六大学や戦国東都は最大のライバル。「強豪との対決よりも前に、まず1回戦の福井工業大戦です。8-1と快勝に見えますが、監督を胴上げしたいとガチガチに緊張してしまって。続く3回戦の天理大10-0も強く印象に残っています。中止にしないの? というレベルの豪雨の中でのスタンド。ベンチから外れた皆が、傘もささずに声援してくれて『俺たちもグラウンドと一緒だ』って表現してくれました」。準決勝は明治大を逆転の3-2で突破、優勝旗をかけた亜細亜大との決勝へ進んだ。

「3点リードの最終回。2点を返され1点差。なお二死2塁。心臓が痛いくらいの場面でした。初球、僕はエース横田哲に真っすぐを要求しました。彼の決め球はチェンジアップ。初球はボール球でいいと。そうしたら、メチャクチャ甘いところにきて」。打者は逃さずに初球打ち、ボールはフラフラと二塁後方へ。「ライトとセカンドが交錯、セカンドが取っていたんです。後でVTRを見たら、ライトは空のグラブをのぞき込んで歓喜の輪に遅れていました」と笑ってプレイバックする。続けて、振り返るのは試合を決定付けた6回の満塁ホームラン。「打った清水和馬は守備のスペシャリスト。彼は大学で2打席しか立っていないはずです。全体練習でも打たずに守備だけ。夜間に居残ってスイングしていました。でも、誰より熱心で野球をよく知る存在で。それが決勝の舞台で代打、というだけで大声援、しかも満塁の場面で。そのホームランの盛り上がりはすごかったんですよ」。三上の思い出は、仲間の面影とともに刻まれている。

久保前監督

パナソニック野球部との縁は、祝勝会に現れた久保監督(当時)、「監督に声をかけてもらいました。エースの横田を視察したとき、僕も打撃を見ていただきましたが、野球観まで話したのは初めてでした。久保さんは『君は土のにおいがする、野球をするならうちが獲る』と。お願いします! と即答です」。進路を決めかねていた三上の前に、突然視界が開けた。当時、パナソニックにはすでに4人の捕手がいたが、三上は打棒で1年目から頭角を現す。「いいチャンスをもらえたんだと思います。オープン戦から打てたので、DHで出させてもらって。バッティングを売りにした1年目でした」。

捕手ならでは、中堅こその存在感

2015年社会人野球日本選手権大会

「勢いを殺さないようにと臨んだ2年目は、いいところで打てなかったのですが、夏からキャッチャーでも使ってもらって、選手権も経験させてもらいました。ただし1回戦負けで、翌年2016年の都市対抗も1回戦で敗れて」、そんな三上についた称号は“全国で勝てないキャッチャー”。「昨年のシーズンで最も悔しかったのが、都市対抗の初戦でした。そこから11月の選手権はベスト8まで。やっと勝てました。もちろん2勝で満足してはいけないけど、それを自信にして、もっと全国の舞台で勝てる試合をつくるのが目標です。『キャッチャーのおかげで勝てた』と言ってもらえるように」。

今年加わった4人の新人投手について。「僕はコミュニケーションが特に大事だと思っています。積極的に話をしていますが、いい意味で頑固ものが多いですね。でも、自分らしさがあるのはいいこと。結果は気にしないでやってきたことを出せと言っています。彼らの持ち味を引き出すが僕の仕事、いいボール、いいフォームをしっかり目に焼き付けて、悪くなったらアドバイスができるように」と心強い。また、「上の人が僕にならば言いやすいこともある。例えば藤井聖太さんが僕を介して意見をくれたら、下の子にそれを伝えることで自分の理解も深まります。もう一つ大事にしているのが、松岡翔馬と話し合うこと。キャッチャーだから分かりあえる話もありますし、2人で解決して次の試合につなげたい」と、チーム内の結束を強くするのも、副キャプテン三上の大きな役目だ。

大舞台を目標に据える三上は、勝つことが応援をくれる方への何よりの恩返しと語る。「パナソニックの職場は、野球に熱心な方が多くていつも声をかけてもらっています。パソコンに向かって仕事に打ち込んでいる方や、その部署を活気づける活躍をしたい。また、先日、最初に野球に誘ってくれた旧友に会いました。彼は、次の都市対抗は応援に行くと約束してくれました。たくさんの方が見守ってくれています。それと、基本はサッカー好きだった家族ですが、今や群馬から京セラドームまで僕を応援に来てくれます。少しでも長く野球をやって頑張っている姿を見せたいですね」。

一目で三上と分かる、独特の打撃フォーム。昨冬から完全なオープンスタンスに変え、真正面から投手をにらみつける。「中日ドラゴンズで活躍した種田 仁さんを知るコーチから、お前はタイプが似ていると薦めてもらいました。いい当たりが出てきた手応えがありますし、打つ方でも絡んでいかなければ。打順は関係なく、任されるポジションでどれだけ仕事ができるかです」と語る三上、中軸でDHも打ってきたパワーヒッターは相手の脅威になる。「もちろん、一番大事なのは守備。配球の面を打撃コーチに聞いて、相手バッターを加味したリードを心掛けています。試合前の準備、それから振り返りもして、もっとたくさんの引き出しを」。4年目の三上が、攻守に飛躍を誓う。

(取材日:2017年3月8日)

投手の調子、ボールの手応えを感じ取りながら、
常にベストの選択、組み立てを描く。
対話・コミュニケーションを信条とする扇の要は、
「若さ」と「経験」でチームをけん引する。

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