やめたくない。その一心で続けた野球が、代えがたいものに変わっていた。
自他共に認める"大器晩成"型のベースボールプレイヤー。
松元は、これからも多くのことを学び成長し続ける。
途中で辞めたくない

幼い頃から、計算と走ることだけは速かった。「野球自体が面白かったかどうかは… あんまり覚えてないんです(笑)」と、申し訳なさそうに松元は話し始めた。
小学3年のとき、友だちに誘われて野球を始めた。6年でキャプテンになり、チームは大会で優勝するようにもなったが、小学生のこと。松元自身は漠然と野球と付き合っていたようだ。「勉強がぜんぜんダメでしたから。『野球でもするか!』って。楽しかったんでしょうね、友だちといることが…」と笑顔で当時をふり返った。

身体がそれほど大きくなかった松元は、足には自信があったものの中学時代は下位打線を打ち、野球で進路を決めるという意識もなく地元の高校へ進んだ。「高校でも野球部には入ったんですけど、『レギュラーをとるぞ!』っていう意識も強くなかったし」と松元は少し自嘲気味に話す。それでも、足の速さは相変わらずのトップクラス。彼はセカンドを守り一、二番を打っていた。「覚えているのは、神港学園戦でのエラー、そして逆転負けでの試合終了。高校のときに、"カキーン"と打った記憶もない」と笑って言う。
まだ野球に熱くなりきれていなかった松元。けれど、チームメイトに「辞めたい」と打ち明けられたときには、一生懸命に友だちと話し合いを重ねた。「後で、『松元君のおかげでうちの子は野球を続けられた』って本人の親から電話がかかってきたときは正直嬉しかった」。"なんでも途中で投げ出したらあかん"という松元の信条は、既に確立していたようだ。
大学での出会いに感謝

松元の実力が開花したのは大学に入ってから。「正直いうと、大学も野球では選んでなかったんです。『合格した大学の野球部でやれたらいいか』って。でも、受けても受けても大学からの通知は薄い封筒(=不合格通知)。大学に入らなければ野球も出来ないですよね」と途方にくれた受験生は、警察官や消防士になることも考えた。受験シーズンがもう終わろうとするころ、松元は関西国際大学に合格する。
関西国際大のグラウンドは、雑草だらけ。文字通り、草野球だった。しかし、「ぼくが入ったあの年に、今の関西国際大学野球部の基礎ができた」と松元は感慨深く語った。社会人野球を経験した新監督が就任し、いちから関西国際大学野球部を鍛え直していた。そして、松元も内野から外野にコンバートし、三番を打つようになった。「金属バットより木のバットが自分に合っていたんでしょうね」と松元は野球への手ごたえを感じ始めていた。

「監督とコーチには、怒られてばかりでしたよ。お二人とも、PL(学園)出身でとても厳しくて」。大学野球のその先を知るオニのような指導者との出会いが、野球との向き合い方、そして松元の野球人生を変え始めていた。「ふてぶてしい態度をとっていたんだと思います。監督とぶつかり、辞める辞めないの話になって。で、泣いているぼくがいたんです。本心では辞めたくなかったのに、ウソをついていたんですね、自分自身に」といつの間にか野球に熱くなっている松元がいた。
野球をすることが楽しくなった。「野球というものが解りはじめてきて。それが成績にもつながったのか、ぼくが打たなければ、という責任感も強くなってきて」と誠実さと力強さのある声で松元は話す。大学2年以降、5季連続で打率3割をマークし、ベストナインに選出。4年の時には、阪神大学野球リーグで初優勝し神宮への道も開いた。「ぼくが泣いたときの話は語り草になっていて、今でもちょっと恥ずかしいんですけどね」と照れた顔で大学時代の思い出を懐かしんでいた。
ひとりで野球をやっているわけではない

関西国際大学の鈴木監督とパナソニックの北口監督(当時)が、PL時代のチームメイトだったこともあり、松元は3回生の頃からパナソニックで野球をするように示唆されていた。野球をしていれば当然プロも意識するが、松元は野球を続ける道を選びパナソニック野球部に加わった。社会人野球のレベルの高さを目の当たりにし、「社会人(野球)は、球の質が違う。コースもつくし、ボール球も使う」と素直にそう思い、ベンチにいるだけでウズウズした。
先輩やスタッフに打ち方やピッチャーの配球などを聞いて回り、試行錯誤を繰り返しながら練習に励んだ。"俊足巧打"という表現がピッタリ当てはまる松元は社会人4年目を迎えるが、いまだ東京ドーム(都市対抗野球大会)でのスターティングメンバーには名を連ねていない。走攻守すべてに高いレベルのプレーを求められつつも松元は、「とにかく転がして、走って、塁に出る。若手にはもちろん負けてられません」と一番の武器である足で勝ちに貢献したいと話した。

松元に、2011年から指揮を執る久保新監督のことをたずねると、「監督がどんな野球をするかまだわからない。でも、監督はぼくと一緒に野球を(試合を)していないのに的確に指摘するんです。『1打席目が悪いとき、2打席目も気持ちを引きずるタイプやな』と。 『なんでわかるんですか!?』って思わず聞き返してしまって」と照れくさそうに答えてくれた。松元は自分を"変なとこ几帳面なヤツ"と評する。何事も真正面から向き合わないと気がすまないタイプで、遊びが足らないとも言う。
「大学の同期で、今も硬式野球をやっているのはぼくだけ。そもそも、途中で辞めるのはキライ。今のぼくは、両親や大学の監督・コーチ、職場の仲間など見てくれている人がいるから、野球が出来ている。限界までやり続けたいし、自分から音を上げることは絶対にしない」と松元。そして「野球だけを追い続けている今の自分が幸せだ」と力強くたくましく言い切った。
ぼくは、野球しかできない。
だけど、まだ最高の勝利を味わっていない。
だから、みんなで勝って泣ける悦びを味わいたい。



