ルーキーイヤーにチーム最多の先発11試合、日本選手権も3戦で先発し、チームをベスト4に導いた。ホープの存在感を十分に示し、飛躍のシーズンを迎える。経験、人材豊富なチームの中で、近藤は新たな野球を学び取ろうと貪欲だ。鋭く真っすぐに伸びる球道、その先にあるものは――。
エースの重圧を乗り越えて
2013シーズン、日本選手権。大学生だった近藤は、スタンドでパナソニックの戦いぶりを見つめていた。「大舞台だ。社員の応援もすごい数……!」と圧倒された。「うちの戦力になってほしい」と熱く求めてくれたパナソニック。しかし「自分がこの場でどれほど貢献できるのだろうか」と焦りを感じた。入部の日まで、不安を振り払うようにトレーニングに励んだと言う。そして近藤は、当時目の当たりにしたエース・秋吉の背番号「18」を受け継いだ。「たくさんの試合で投げさせてもらって、良いも悪いも経験できた」と1年目を振り返り、「絶対的な存在を目指す」と決意を語る。
少年のころは、自分が野球選手になる姿を想像していなかったと言う。父親が社会人で軟式野球をしていたため、野球は身近なスポーツだった。小学3年生で地元・堺市のチームに入ったが、「友達とワイワイ野球を楽しんでいただけ」と思い返す。
転機は中学生で入団したヤングリーグ「オール住之江」。仲の良い面々と足を踏み入れた硬式チームだった。先輩たちのレベルは高く、練習はハードそのもの。当時監督を務めていたのは黒田一博さん。メジャーリーグでも活躍した、あの黒田博樹投手の父だった。オフシーズンの黒田選手が練習を見に来て、一人ひとりに声をかけたと言う。「もっと前に踏み出して投げろとか、直接アドバイスをもらうと嬉しくて。素直に、絶対にそれだけは守ろうって思えたんです」。プロの圧倒的な存在感がものを言う。「かっこいいな」。少年の胸は高鳴った。
近藤は1年生の後半から、ピッチャーとして試合に出場。「体の大きな上級生を前に、キャッチャーミットを目がけて力いっぱい腕を振り切る。がむしゃらでしたね。とにかく目の前の相手をどう抑えるかが課題でした」と鮮明に思い返す。ただ楽しかった野球に、結果が求められるようになった。「真っすぐ、次は変化球だと、それぞれこだわって練習するようになりました」。直球で追い込み、スライダーで三振に仕留めるというスタイルを確立。人一倍責任感が強く、練習熱心な近藤が、成果を発揮し、エースと呼ばれるのに時間はかからなかった。
強気なピッチングに、「ハートが強い」と言われた近藤だが、「心の中は不安だらけ」とはにかむ。「生半可な気持ちではいられない。負けの責任はピッチャーにある」と自らを追い込み、重圧に苦しむことも多かったと言う。3年生で全国大会の切符を勝ち取ったが、1回戦で敗退。1点ビハインドの3回からリリーフに入り守り切るも、追い付けなかった。全国レベルの野球、パワーやスピードは段違い。そこでもっと自分の力を試したかったのが本音だろう。
「父に認められたい」、思いが爆発
中学校の卒業式で、近藤は将来の夢を「野球に携わる仕事」と発した。「もちろん野球を続けるつもりでしたが、選手になる! とは言い切れなくて。トレーナーとか、周りでサポートをする仕事に興味を持つようになっていました」。スポーツ推薦は辞退し、塾に通って一般入試で浪速高校に進学。「父の母校でエースになることが目標だった」と振り返る。近藤は1年生からベンチ入り。「高校野球は憧れの世界。やっぱり面白い」と、球速アップに励み、持ち球の威力を磨いた。また、「それまで僕の野球に興味のなかった父に、認めてもらいたくて」と明かす。
高校2年生秋の大阪大会、ついにその父をうならせた。並み居る強豪を打ち破って進んだ準々決勝。対するは、最強の大阪桐蔭だ。「12回まで0-0。毎回ヒットを打たれてピンチが続きましたが、皆が守ってくれて粘りました。ベンチに入れなかった部員の大声援が聞こえてきて」と興奮気味に話す。13回で決着がついた。2-3でサヨナラ負けだったが、この試合でチームが本当に1つになったと感じた。もう1つ、この1戦が印象深いのは、それまで観戦に来なかった父親が母親と一緒にスタンドで見守っていたこと。「父が『初めて認めた』と言ってくれました! 家ではあまり野球の話をしなかったのに、それからは『試合どうやった? 調子は?』と聞いてくるようになって。アドバイスもくれて、嬉しかったですね。僕も野球で恩返ししたい気持ちが強くなって」と目を輝かせる。
大阪桐蔭戦では、プロスカウトの注目も集めた。「もしかして、プロもと思うようになりました。挑戦したいと、自分の意志も固まった」と当時を思い出す。しかし3年生の大阪大会はベスト16止まり。「2年生の時はがむしゃらにプレーできていました。そこで自信がついた分、今度は『魅せよう』としてしまった。観客も多かったし、格好つける気持ちがあったのかもしれません。それがあの時の実力」と殊勝に話す。プロには届かなかったが、高校球児としての思い出は仲間。「僕は皆がいたから頑張れたんです。もっと一緒に野球をやりたかった」と、何度も口にして悔やんだ。
大学野球で人生の恩師と出会う
またもスポーツ推薦を断り、大阪商業大学を受験した。「最初から特別扱いをされるよりも、はい上がっていく方が性に合っている」と言う。予想外に、大学では人間力を一から鍛えられた。「あいさつの仕方に始まり、あらゆる所作やマナーをたたき込まれました。富山陽一監督は、僕らに1番大事なのはそこだと徹底していて。戸惑いもありましたが、監督には厳しさと同時に温かさも感じ、みんなでついていきました。ミーティングは30分前に全員が集合するなど、僕らの行動が変わった。すると野球の結果にそれが表れ出して」と振り返る。「俺たちが日本一の監督にしよう!」と、皆で熱く語り合ったと言う。
1年生春のリーグ戦から、近藤は2番手で起用された。球のキレ、伸びは大学即戦力の実力。テイクバックを大きくとり、リリース時に縦回転をかけスピード以上の威力を放つ。躍動感あふれるフォームで闘争心をむき出しにし、チームを盛り上げた。近藤は関西六大学の猛者たちに切り込み、春季リーグの新人賞を獲得。しかしその後は体がついてこなかった。2年生の春から肩に違和感をおぼえ、秋はボールに触れない状態に。「3年生の春は注射を打ち座薬を入れ、無理をして抑えで投げましたが、やはりきつかった。チームは最下位に沈んで……。迷惑をかけている自分が情けなくて、気持ちが腐りそうな時もありました。必要とされなくなると不安で」と当時を思い起こす。
ところが監督をはじめ、友人は「早く戻ってきてくれ」と声をかけ続けてくれた。チームのトレーナーもつきっきりで回復を支えてくれたと言う。近藤は「戻る時はレベルアップを」と誓った。ウエートトレーニングで肉体改造、細身だった体を10キロ以上パワーアップさせた。特徴の大きく手を振るフォームも、腕の力だけに頼らないよう動きを細かく修正した。「けがをして、あらためて自分の弱さを知りました。あの1年間が土台になった」と悔しさを消化する。「3年生の春は経験不足で結果が出なかったので、夏場に投げ込みをし、やり過ぎて今度はあばらを骨折。秋季リーグはまたも痛み止めを打ちながら投げた」と苦笑する。
2年生の春から3季連続で未勝利だった。いよいよ4年生、最速148キロの速球を携えて、文字通り全力投球の年となった。春季リーグ2位、秋季リーグはついに42季ぶりの優勝を飾った。「1戦目、3戦目と任せてもらった試合で連続完封できました。それまで負けっぱなしだったライバルに完全勝利。チームの団結にすごみがあった」と熱弁する。チームに良い緊張感が続き、その後明治神宮大会をかけた関西代表決定戦も1位で通過。「みんなで監督を胴上げするために、4年間頑張ってきた」、その一心だったと言う。
「この時、思い出に残る試合もできました」と続ける。関西学生リーグ王者の関西学院大学を相手に、ノーヒットノーランを達成。大会史上初の快挙だった。「僕はキャッチャーの桂(中日ドラゴンズに所属)の言う通りに投げ、周りがきっちり守ってくれた。7回のマウンドに立つ時、監督に『狙え』とはっぱをかけられました。力が入り過ぎるかと思ったのですが……」。そこで冷静に完投できたことが、近藤の4年間の集大成だ。「けがをした自分もですが、仲間と頑張ったこと全てが凝縮されていました。ブルペンキャッチャーなど、表舞台に立たなくとも、いつも元気付け、サポートしてくれる人がいた。皆で一緒に神宮大会で戦いたいと思えば、力が出ましたね」と充実した表情で話す。
大商大は31年ぶりに明治神宮大会に出場。「結果はベスト4。やはり最高峰の戦い、大学で野球をするなら行くべき場所だなと感じました。日本一はかないませんでしたが、試合後のロッカールームで、いつも多くは語らない監督が『よう頑張ったな』と声をかけてくれました。いい人にめぐり会えた、大商大に行って本当に良かった」と思いを真っすぐに語る。
パナソニックへ。感謝の心が自分を強くする
昔から、試合前は1人で集中力を高めるタイプ。プレッシャーを背負い、良い緊張感を持ってマウンドに臨む。「パナソニックでは、力み過ぎだと指摘されます。前日からそわそわして、急に水回りの掃除をしたりして」と笑う。「打者のスイングのスピードや力、社会人は全てが速い」と実感した。大学以上に1球の精度が求められる。しかしマウンドに立ったら、自分を信じ、チームメイトを信じてバッターに向かうだけ。「打たせても、先輩たちがしっかり守ってくれる。自分1人で戦っているんじゃない」と心強い。また「会社に行けば、同じ部署の人たちがいつも声をかけてくれます。試合では観客席の前で大きな声援をくれたりして、すごく励みになるんですよ」と顔をほころばせる。
今、近藤はチームのために、会社のために、「ゼロ」を守り抜くという思いに満ちている。2014シーズンは序盤から2ケタ奪三振など、キレの良いストレートがさえた。振り返れば防御率2.82の活躍。1年前に夢見た日本選手権のマウンドにも立ち、「最高の舞台だった」と晴れやかに語る。「次は都市対抗も」、憧れの舞台は次々と近藤を待っている。「勝てるピッチャー」になるために、変化球の精度を高め、バックの堅守を生かす挑戦が続く。「先輩の1球にかける意識から、学ぶことは多い。どんな気持ちで投げるのか、バッターをどう見て抑えるのかといった、感覚的な教えが新鮮です。これからは自ら行動を起こしていく。練習で具体的なシーンを想定しながら、自分の幅を広げていきたい」と意気込む。
「パナソニックで日本一に貢献することが、これまで支えてくれた人たちへの恩返しになる。皆の期待以上の活躍を」と力強く前を見つめる。ここまで「真っすぐ」に歩み続けた近藤が、社会人野球で多くの刺激を受け、どのように羽ばたくだろう。想像を超える活躍を期待したい。
恩師や仲間の情熱が、スタンドの声援が、
いつも自分を押し上げてくれた。
これからは自分が皆を支える。
感謝を胸に、熱投を誓う。