Panasonic Sports

ピックアップフェイス

金森 敬之

プロ球界で14年のキャリアを重ねた投手、金森敬之がパナソニックに加わった。「北口部長から『100周年、日本一のために』と声をかけていただきました。必要とされることがうれしかったし、こうして現役で好きな野球ができている。恩返しができるように、必死で投げたい」。初の社会人野球、これまでと大きく異なる環境だが、金森はむしろその変化をモチベーションに変えている。「チーム全員で戦う一体感。こんなに野球が楽しいのは久しぶりです」。

出身地、大阪からのオファー

2017年秋、金森は岐路に立っていた。プロ野球12球団が自由契約選手を対象に行う、合同トライアウトに参加。千葉ロッテから戦力外通告を受けた後も練習を続け、万全でこの日を迎えた。ゆったりとしたフォームから投げ込む一球一球。丁寧に上下左右いっぱいのコースを突くが、バッターはしつこくファウルで食らいつく。打たれても、抑えても感情を表には出さない。金森は自分のスタイルを貫いたが、獲得を申し出るチームはなかった。「ある球団から裏方の打診をもらい、その方向で考え始めて。野球選手として、一つ区切りをつける。そんな気持ちもありました」。

徐々に気持ちが固まりつつあったその時、思わぬオファーが届く。パナソニックからの連絡。野球部のある大阪は思い入れのある出身地、しかし関東から移り住めば生活の全てが変わる。「もちろん、まだまだ投げられるという思いはありました。ただ、家族のことを考えると。小学生の息子二人は転校になるし、野球をしている上の子は今のチームで優勝をしたばかり」。思いは揺れたが、「ついていくから、と家族が言ってくれて」。好きな野球が続けられる。金森はもう一度、選手という道を選んだ。

高校生だった金森がドラフト指名を受けたのは2003年。幼い頃から間近に見てきたプロは憧れというよりも、金森にとっては“必然”の場所だった。「家から藤井寺球場が近くて、小学生の時によく観戦しました。プロになりたい、いずれ自分もなるものだと思っていましたね。少年野球のオール羽曳野に入ってからも、このチームの出身には甲子園に出場した人も多かったし、自分もゆくゆくは甲子園、そこからプロにと考えていました。オール羽曳野での成績は全国のベスト8あたり。高校はいろいろの選択肢がありましたが、親元から離れた関東の東海大菅生高校を選びました」。

思い続けたプロが、現実のものに

「高校では、いきなり4月から投げさせてもらったんです。公式戦だったはずですが、入学式よりも先だったかもしれませんね(笑)。相手チームは早稲田で、3回だけ投げてこいと言われて。その試合で抑えて、ヒットも打った。そこからずっと出場しました。うちの高校はピッチャー=9番と決まっていたので気楽だし、バッティングも好きでしたね。打つ気がないような顔をして、打席に入ったりして」。強豪校の東海大菅生だが、高校1年生から金森は主力になる。

目標とした甲子園。最大のチャンスは3年生の夏、西東京地区予選の決勝戦。昔のことは覚えていないと言うが、15年前の一投だけは記憶がよみがえる。場面は3-3で迎えた8回。「先頭にツーベースを打たれ、送りバントをされて一死3塁でした。次は一つ年下でその日も二安打されていた打者。打たれたのはちょうど100球目。真っすぐが内に入って、レフト前ヒット」。これが決勝点になり4-3でゲームセット、あと一歩で甲子園出場はかなわなかった。「意外と覚えているものですね」と笑う金森。

金森の志望はプロ野球のみ。大学などの進路は絶って、ドラフトの日を迎えた。金森を指名したのは北海道日本ハム。「スカウトの方が試合を見てくださっていましたが、本当に声がかかるのかと不安で、ソワソワしていました。仲間がインターネットでドラフト会議を見守ってくれたのを覚えています。夢に見たプロ野球選手ですし、うれしかったですね。1年目の4月から何試合か投げさせてもらってスター選手とも対戦。『うわ!テレビで見ていた人に投げてる』って感覚でした」。

本塁を踏ませない、会心の投球

しかし、順調な滑り出しから一転、金森は1年目のシーズン中に肩を故障する。「同期生が投げている姿を見ると、自分も投げたい気持ちになる。でも、トレーナーや先輩が言ってくれたのは、『ガマンだ』って。今のうちに、もう一回鍛えなおして2年後、3年後に1軍で投げられるように頑張れと。1年半はひたすら走って、トレーニングばかりしました。けがをして良かったと言ったら変ですが、結果、けがをプラスに捉えることができました」。肩が回復するにつれ、金森は2軍でクローザーを任され、手応えを感じながらその時を待った。1軍のマウンドへ――。

飛躍を遂げたのは4年目。5月に初勝利をあげると、シーズン後半の9試合に投げ、防御率2.35の安定した投球を見せた。2009年には日本シリーズ出場をかけたクライマックスシリーズで、終盤の8回、無死満塁にリリーフで登板。「ブルペンで、俺の名前を呼んでくれと思っていました。ここで行きたいと。今振り返ると、本当に野球が楽しかったですね」。金森は一ゴロ、三ゴロで二者を打ち取り、最後の打者は空振り三振に斬って無失点。「3-1のリードを守った金森」、その名が野球ファンに知れ渡った瞬間だった。同年チームはリーグを制し、日本シリーズでも頂点に立った。

「でもそこからは、大事なタイミングでけがをしてばかり。1軍と2軍を行き来しました。けがをしても早く投げたい。6割、7割ぐらい治って『もう行けます』と言って投げては、また……。どこかが悪いと、人間ってすぐにバランスが崩れる。足をかばえば反対の足にくる、肩をかばうとひじを悪くしたり。巡り合わせもあって、1軍投手の調子が良ければ上にはいけないし、逆に自分が1軍にいてもけがをすれば、すぐにポジションはなくなります」。

1年限り、決意を胸に四国へ

「ひじの手術を受け、全く投げられない状態」。2013年に日本ハムから戦力外通告を受けた金森は、リハビリをしながら1年後にNPBに戻ると決めて、四国アイランドリーグの愛媛マンダリンパイレーツに移籍。驚いたのはその環境だ。「一度は野球をやめた子が入ってきたり、今まで僕の野球人生で会ったことのない経歴の人が多かったですね。クラブハウスもないし、自分の車がロッカー代わり。ユニフォームも自宅に持ち帰って洗濯をする。大変でしたけども、その経験があって今があります。まだ小さかった子どもを連れ、一緒に行ってくれた嫁さんに感謝しています」。

右腕の状態をケアしながら7月から投球を始め、納得のいくボールが投げられるようになったのは8月から。マンダリンパイレーツでは35試合に登板。安定した成績をあげ、自信を持ってNPBの合同トライアウトに臨んだ。本来の状態にさえ戻れば、キャリアも実力も一つ抜けた存在。すぐに千葉ロッテから正式オファーが入り、縦じまのユニフォームに袖を通した。「中継ぎで勝負をしたいと思っていましたが、とにかく1軍で投げること。それが第一の目標でした」。育成契約から6月には支配下選手となり、金森は再びプロ野球1軍のマウンドを踏んだ。

「できる限り、1年でも長く野球をしたいと、そのために頑張っていました」。千葉ロッテでは常に1軍とはいかなかったが、ファームにいても金森は全力で投げ続けた。「年齢を考えても、若い選手にチャンスが多いのは当然。かつては自分もそうでしたから。でも、2軍の試合でも他の球団関係者が見ていますし、腐らずにやろうと。トレードに出されてもいいと思っていました」。1年間の四国ILを含めて14年間のプロ生活を振り返る時、金森はファームでの戦いを語る。心を折らず、前を向く理由は一つ、「好きな野球のために」。

勝つ喜びを分かち合いたい

社会人野球は、金森にとって未知の世界。「社会人出身のプロ選手は、母校を応援するように都市対抗の応援にも行きますが、自分はそんな機会もありませんでした。パナソニックは、投打ともに本当にいい選手がそろっているなというのが第一印象です。また、プロ時代の仲間に話をしたら、『社会人野球は本当に面白い。一発勝負の楽しさを経験できるから』と言ってくれました。確かに一つのゲーム、この試合を勝ちたいという気持ちは、とても強いものを感じます。負けたら終わりのトーナメント戦はプロにはない部分」と、これから始まる全国大会を楽しみにしている。

中継ぎを主戦場としてきた金森は、ベンチで試合を見ることも新鮮だと言う。これまでは、ゲーム中も場所が離れたブルペンから、テレビモニターでの観戦。出番がない序盤は椅子に腰掛けて冷静に試合を見るし、得失点の瞬間を共有することも少ない。「今は何か、チーム全体で燃えるものを感じます。ホームランが出れば、一緒にワアッと盛り上がる。勝ちたいっていう一体感がいい。勝った時の心地よい疲れを感じたいし、みんなにも感じてほしい」。

練習も全員一緒に始めて、全員で終わる。グラウンドに残って自主トレをする選手がいれば、金森も球拾いを手伝う。「ランニングもこなしていますが、やっぱり若い子と同じスピードでは走れない。ピッチャーも毎日投げるし、体力があるなあと。自分はけがをしたら終わりなので、そこを考えながらの調整。1日でも長く、1年でも長く、必要とされるように頑張りたい」。そう語る金森の目は、二人の息子、支え続けてきた奥さまにも向いている。「球場で投げている姿を家族に見られるのは好きじゃなかったし実際に少なかったのですが、今は頑張っている姿を見せようかなって思います」。

自分は一人の投手

「パナソニックの若い子はめちゃくちゃ真面目で素直。でも調子の波が激しい子も多いし、何か自分の経験がアドバイスになったらと声をかけることもあります」。日本ハム時代に一番かわいがってもらった金子誠さんら、先輩から教わった心得やメンタル面を今度は自分から後輩に伝える。「相談をされた時に、ふと話しながら思い出すことがあるんです。ああ、自分はこう言ってもらったなあって。『相手は何しろバットを持っているんだから、どんなにこっちの調子が良くても打たれることがある』とか。そう言ってもらうと楽になって、打たれた時も切り替えられる」。

金森自身の最初の目標は、スポニチ大会を目標とした仕上げだった。「春は、まずそこに合わせて調整しました。体に疲れが残れば少し緩めながら。次は都市対抗を目標に、自分を追い込んでいきます」。経験値があってこその調整。自分のコンディションを見極めながら、試合日程のカレンダーにピークを合わせる。しかし、ベテランらしさや先輩らしさに話を差し向けると、金森は即座に否定する。「まだまだ、ベテランじゃない」「相談をされたらもちろん考えを伝えますが、自分はコーチじゃなくて選手」。あくまでも一人の投手、戦力だと宣言する。

「気持ちの面では、どれだけ開き直って投げられるかです。やってきたこと以外は出せないし、自信を持っていくしかないと思っています。ストレートがめちゃくちゃ速いわけじゃないですが、ゾーンの出し入れだとか『経験の味』みたいなものはある。パナソニックで野球ができることに恩返しをしたいですし、ファンの方に一生懸命に投げている姿を見ていただけたらと思っています。若い子と一緒に必死で頑張ります」。切り札の一枚、金森がチームメイトとともに栄冠を目指す。

(取材日:2018年3月20日)

初めて着るブルーのユニフォーム、
背負う#30は独立リーグでつけた番号。
「あの時の気持ちのように、また一から」
金森がファーストシーズンを投げ抜く。

ページの先頭へ