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ピックアップフェイス

甲斐俊治

社会人野球2年目で日本選手権の優勝を経験した。
あの美酒をふたたび味わいたい。若い選手にも知ってもらいたい。
都市対抗野球、悲願の制覇へ。甲斐は打ち、走り続ける。

“父子鷹”で鍛え上げられた少年時代

「ぼくが小さいころの写真は、グローブやバットを持っているものばかりなんです。」と、白い歯をこぼしながら甲斐は語りはじめた。

社会人野球の選手だった父に連れられ、5歳上の兄と一緒に、公園で野球をすることは“ごく自然”だったと言う。小学校1年生で少年野球チームに入ると同時に、父もそのチームのコーチに就任する。「兄は中学に入ると野球を辞めて陸上に進んだんです。そのころからぼくへの指導がさらに厳しくなりまして(笑)。チームに何かあれば必ず僕が呼ばれて、もう、むちゃくちゃに怒られました。幼心に『なんでオレだけこんな目に遭うねん』と。」弱ったような笑みを見せて甲斐は振り返る。

中学時代、“高いレベルに挑戦したい”と、地元・堺市で最も強豪として知られた“ジュニアホークス”に入団。3年時にはボーイズリーグ全国大会で優勝を成し遂げる。「走り込みから礼儀まで、徹底的に教え込まれました。とにかく練習がきつかった。今でも中学時代が一番しんどかったと思うくらい。野球は好きでしたが、“楽しむ”とか“充実した”という感覚ではなかったです。」実は“辞めたいと思う時期もあった”と明かす甲斐。では、そのつらさを乗り越えられた決め手は何だったのだろう?

「すごく恥ずかしいことなんですが・・・ 父親の存在が怖かったんです。とにかくスパルタで。会社から帰ってくると、『走ってこい!バット振れ!』と言われて。『もうやった』と答えると、『オレはまだ見ていないから、もう1回やれ』と。野球を辞めたいなんて、さすがに言えなかったですね。」苦笑いと照れ笑いのまじった表情で甲斐は語った。

「普段はやさしい父親でしたが、野球の話になると目つきが違うんですね。褒められたことがなかったので、逆に褒められるように頑張ろうと。その思いが強くて。」健気で真っすぐだった少年時代。甲斐の誠実な語り口からも、当時の面影がうかがえる。

プロ級選手とともに汗を流す学生時代

「野球は高校からだぞ」と父に口酸っぱく言われていた甲斐。その言葉の意味を、名門・上宮高校で知ることになる。2学年上の先輩は、センバツ甲子園でベスト4。3人がプロ野球に行くほどのメンバーで、1年は雑用や走り込みばかり。打撃練習も守備練習もできない。30人以上いた新入部員がみるみるうちに退部していく。ここで甲斐は、ますます真剣に野球に取り組むようになったと言う。「僕らが全体練習に入ったら邪魔になるだけ。純粋に体力づくりからだと痛感しました。プロに行くような選手を間近で見て、この人みたいになりたい、近づきたい、あの域まで行けばプロになれるんだ、という思いで鍛えていました。」と力を込める。

その3年生が引退した秋季、甲斐は1年生ながら“背番号5”を勝ち取るも、大阪大会ベスト16で敗退。2年時には夏をケガで棒に振るつらさを経験。そして3年。最後の夏は大阪大会ベスト4に終わる。「相手は上宮太子高校。初めての兄弟対決と騒がれて。負けても同じ校歌が流れたんです。校歌を聴きながら、みんなで泣き崩れました。」と、いまも悔しげに振り返る。

大阪地区の厚い壁に阻まれ甲子園を経験できなかった。しかし、甲斐には“プロを目指す”という明確な目標ができていた。関西を中心に多くの大学から声がかかる中で、九州共立大学を選んだ理由を、「関西だと甘えが出てしまいそうだった。だから、実家から一番遠く、逃げ場のない九州で追い込みたかった。正直、父親から離れて自分と向き合いたいという思いもありました。」と素直に語る。

大学では1年生の春からショートでスタメンに抜擢。「チャンスをいただき、本気でプロを目指さなければと。同級生に馬原孝浩投手、1学年上に新垣渚投手と、現在プロで活躍する選手がいて、教わる部分がたくさんありました。」と謙虚に、抑えた口調で話す。福岡六大学野球リーグでは4年間8期のうち7度優勝。全国大学野球選手権に3度出場し、すべて4強入りを果たす。2年秋にはベストナイン。50m5秒8の俊足を活かして盗塁王も獲得。プロを意識して野球に取り組んだ。でも、次の進路を決めるとき、自分を見つめるもう一人の自分がいた。

“プロになる”夢は、目標“都市対抗を制する”へ

「当時の大本監督に誘っていただき、松下電器(現・パナソニック)に進むことに決めました。」しかし、プロが目標だった甲斐。いくつかの球団からドラフト指名の話もある中、どんな思いで決断を下したのだろうか。

「大学の監督は『まだプロでは通用しないから、社会人に行ってからでも遅くはない』と。父は『本人に任せる』と言ってくれました。ぼくも初めはプロを希望したのですが、『いまプロに入って活躍できる自信はあるのか』と自問自答を重ねて決めました。」当時の複雑な心境に触れる不躾な質問にも、甲斐は誠実に答えてくれた。

社会人1年目の甲斐を驚かせたのは、年長の選手ほど率先してガッツあるプレーをしていたこと。「言葉は悪いですが、30を超えたオッサンたちが練習のときからヘッドスライディング。ユニフォームを泥々にして取り組んでいる姿は、プロでも見られないなと。必死さが伝わってきました。」そして2年目の2005年、社会人野球日本選手権の優勝をレギュラーとして経験。「“ビールかけ”もできて、『ああ、この瞬間のために必死にやっているんだな』と実感しました。」そう甲斐は表情を崩す。

社会人野球は負けたら終わりのトーナメント戦ばかり。甲斐は夢を変えた。「1発勝負の面白さに魅かれて、4年目からプロへの想いは一区切りつけました。パナソニックで、まだ成し遂げていない都市対抗の優勝を目指したい気持ちになっています。とにかく今できることを精一杯やるだけです。」と熱く語る。

入社から7年。自らが“30のオッサン”に近づいて、若手を引っ張る立場を自覚していると語る甲斐。もちろん父親からのアドバイスは、もうない。「いまになって、社会人までやってこれたのは、小さいころに教わった基礎があるからだと感じています。恥ずかしくて伝えたことはないですが・・・」ひと呼吸おいて、甲斐はきっぱりと言った。「父には本当に感謝しています。」

後輩のミスを先輩がカバーする。その気持ちがあれば互いに成長できる。
チームはまだまだ強くなれると語る甲斐。
歓喜の輪の中心で、甲斐の笑顔が輝くときがとても待ち遠しい。

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