乾いた音を立て、井上和樹の差し出したミットに白球が収まる――。「ピッチャーからボールが見えるように捕球する。ミットを閉じず、隙間からボールをのぞかせてマウンドからよく見えるように。ここに来ているぞと投手に確認させるんです」。パナソニック野球部でマスクをかぶってきた11年間、大舞台で一球の重みを感じ、ブルペンでピッチャーと悩みを共有しながら受け続けた何万、何十万のボール。重ねてきたキャリアが、キャッチャー井上を形づくった。
ピッチャーは難しい生き物。

2013年 日本選手権大会
秋吉(現、東京ヤクルトスワローズ)と
入部して6年目まで、出場機会の大半は8回か9回。守備固めにキャッチャーを代える理由は一つ、リードに他ならない。「基本的に、僕は相手チームに点をあげたくない人。こうしないと抑えられないでしょと、投手とコミュニケーションを取りながら、そこにこだわってきた」と話す井上、ピッチャーにとって苦しい配球の組み立て、細かで厳しい要求もためらわない。
7年目からの3年(2011年~13年)は、正捕手に。「当時はチームの守備力が高くて、内外野とも守備隊形は指示しなくてよかった。僕は気持ちの90%以上をピッチャーに向けていましたね。主戦投手は秋吉(現、東京ヤクルトスワローズ)でしたし、発破をかけるのが仕事で」と振り返る。気の抜けた投球を感じたら、マウンドに駆け寄り、クールなエースに強い口調で迫る。それは周りの野手に対する示しでもあり、バッテリーを軸に「守りきる意識」を徹底する井上のスタイルだった。
「よく話し合い、結果が悪ければ反省もしてきましたし、これまで分かり合えなかった投手はいません。ピッチャーは、わがままで難しい生き物。丁寧に扱わなければ」と、笑みをこぼす。そういう井上自身、野球を始めた小学時代は投手で、受けるキャッチャーが吹っ飛ぶほどの速球派。自信満々でマウンドに立っていたという。現在は広く周囲を見渡すベテラン捕手だが、球歴をスタートした小中学時代のエピソードからは、自分中心で自信家の姿が浮かび上がる。
「普通にやっていれば、プロへ進める」

10歳で加入したのは、軟式のブラックシャドウズ。わずか1年で抜けた実力になり、勧誘を受けた住之江リトルリーグへ移籍、硬式ボールに持ちかえる。「そこには、僕よりも速いピッチャーがいて、彼は132キロを投げていました。受け手が必要と、僕はキャッチャーの機会が多くなり、投手としては3番手に」。大阪のリーグは全国屈指の最激戦区だ。「全国大会がかかった準決勝、泉佐野リトルリーグに1-2で負けて出場はかないませんでした。その後、関西一から日本一を達成した泉佐野と、世界戦を前にして練習試合をやったら、6-3でうちが勝ってしまった。それぐらい力のあるチームでした」。1番から9番まで全員がホームランバッターの泉佐野を相手に、肩を並べる勝負を繰り広げた。「高めの速球しか通用しないと、全部中腰で構えて、とにかく高めを振らせました」と懐かしそうに振り返る井上。打者を封じる、捕手の本能が芽生え始めた。
リトルのチーム練習は、土日だけに集中したハードなメニュー。「体を大きくするために、昼は丼飯3杯がノルマで、さあ10分後に走れ! ってむちゃです。泣きながら走っていましたね」。中学に進むとボーイズリーグのオール住吉に加入。さらに厳しい環境で野球をさせたいと、父親が選んだチームだった。平日も妥協なく、家庭内で特訓が続く。毎日10キロの走りこみと、晩は薄暗い照明の下で父親とティーバッティング。「強打者の先輩がいて、いい目標ができました。どこまで飛ばすねんって感じで。これぐらいじゃないと有名高校には行けないと」。強肩を生かし1年生から三塁手で出場。後に遊撃手・三塁手・投手・捕手とマルチな役割となるが、内野の守備は自分流。「アクロバティックな態勢で、難なく送球していました。探究心があったのか、適当だったのか」と振り返る。

当時、全く甲子園にこだわりがなかった井上。「普通に野球をやり、有名高校に入って活躍すれば、プロになれると思っていたんです」。実際に、ボーイズでも関西ベスト4の成績を上げ、中心選手だった井上には、名門からのオファーがズラリ。実にその数18校。絞り込んだ上で甲子園常連校の練習に参加したが、そこで強気の井上少年が牙をむく。「自分の野球にダメ出しされた上に、勉強しろとまで言われて。断りました」。慌てたのは両親。他校は断った最終段階で進路がない……。結果、中学の監督が頼み込んで道をつけた箕面学園へ。「監督は、強豪校を断ったときもすんなり受け入れてくれた。僕の性格を考え、高校1年生から試合で活躍できる方がいいと。今の自分があるのは、監督のおかげです」。危なっかしいながらも、箕面学園で野球を続けることができた。
自信の塊。思ったように、いつでも打てる。

サードで4番打者の1年生は、「打撃に相当な自信がありました。面白いようにボールが飛ぶ、野球ってこんなに簡単か? って調子に乗っていました」と怖いものなし。好きなように打って走れと、監督も全幅の信頼を寄せ、成長を見守った。
井上が高校3年間で、一度だけ泣いた試合がある。1年生の夏、北大阪ベスト8で大阪学院に7-8で敗れた一戦だ。4安打3打点と打棒でチームを引っ張り、迎えた9回は5-4でリード、2死で井上のよく知る旧友がバッターボックスに入った。「あと一人。マウンドに行って、ここは絶対に投げたらアカンと好きなコースを先輩に教えたのですが。1ボール2ストライクから、決め球がまともにそこへ。本塁打で同点。続いて3点奪われて負けました」。自分が打たれたように、井上はホームランの軌道を見送りながら膝をついたという。甲子園は意識してこなかった井上が、唯一「もしかして」と見た幻だった。

粒ぞろいだった3年生が抜けると、チームは一気に弱体化。「自分だけは活躍して、プロへ」と再び個を磨いていくことになる。「守備は、キャッチャーとピッチャーの併用になりましたが、打撃はずっと自信があって、いつでも打てるなって感覚」。言葉通り、秋の大会に打ちまくった試合もあった。エースが打ち込まれて、こちらは無得点。5回、0-8でコールド目前の状況から、連打で延長に持ち込み、終わってみれば10回、15-14で勝利した。「野球は、何があるか最後まで分かりません。3年生夏の予選も、前年秋の覇者だった大産大附属との試合が、5-4の惜敗。弱いと思い込んでいたチームが、戦ってみたら意外と接戦に持ち込めたんです」。
捕手の道へ――。受け続け、考え続ける。

投手・井上のクライマックスは高校2年生、秋の大会。強豪の初戦対決が話題になった「PL学園 vs 上宮太子」、そこを勝ちあがってきた、亀井善行選手(現、読売ジャイアンツ)との対戦だ。先発の井上は5回1失点、チームは2-3で敗退したが、「あの亀井選手を完全に抑えました! インコースのストレート攻めで詰まらせた」と誇らしげに語る。一方、投手を諦めたのも2年生のこと。肩を痛め、さらに腰に分離症が出て、3年生の4月になるまでボールを握ることができなかった。井上はキャッチャーで戦線に戻り、3年生エースの力をどう引き出すかに腐心した。武器は、フォークのように落ちるスライダー。配球を組み立て、打者を打ち取る面白さに魅了される。3年生最後の夏は1回戦で敗退したが、けがを経て「これからはキャッチャー」と決意を固めた。
ピッチャーのオファーもあったが、複数の誘いから選んだ進路は、「キャッチャーで」と声をかけてくれた佛教大学。すでに素晴らしい先輩捕手がいて、レギュラーになれない井上は、ここで野球人生初めての「控え」を経験する。「僕ならこう攻める、なんでこうしないのか。自分の配球と先輩の配球を照らし合わせるのは、結構、面白いもの」。佛大は大所帯で、ピッチャーだけで40人ほど。キャッチャーは約10人で、強化期間となれば、1日に500球ほどを受ける。「ピッチャーに直接聞いて、どう受けたら投げやすいかを試行錯誤した時期。ただ球を止めるだけの壁になっちゃだめだと。今の基礎ができたのは、大学の下積み時代です」。

3年生の秋に井上は正捕手の座をつかみ、4年生春のリーグ戦で優勝。全国大会の神宮、「観客も多くて経験がないほど緊張していました。ここが、六大学や東都が試合をする場所かと。ベンチメンバーで経験はしていましたが、試合に出て、そのすごさがよく分かった」。対戦相手は八戸大学、1-0から同点に追いつかれ、なおもランナー3塁。スクイズを許して失った追加点を井上は振り返る。「カウント2-2。ベンチの指示は『キャッチャーに任せる』。あるだろうか、いや……、いちかばちかの場面でしたが外せなかった。あそこが勝負の分かれ目、1-4で敗れました」。実行できなかった悔しさはあるが、一方で考えた上の結果に納得もしている。「キャッチャーの嗅覚は間違っていなかった。何も考えずにやられたわけではない」と。そうした能力を高く評価したのがパナソニックだった。「伝統あるチーム、ここしかない」と、井上の社会人野球が始まった。
12年目の自分、だからできることがある。

2014年 都市対抗予選
直近2年は、それぞれ記憶に残る試合がある。2014年、控えに回ったシーズンだったが、都市対抗予選の第4代表準決勝で先発マスク。ベテラン投手の四丹、鶴川(2015年度 引退)と組んで、新日鐵住金広畑に4-3の僅差で勝利した。「接戦にしなければ勝機はないと思っていました。四丹に絶対に接戦になる、3点で我慢しろと言ったのを覚えています。きっちり3点取られましたが(笑)。続く鶴川が爆発してくれて、ゼロ行進できました」。負けたら終わりの一戦を託された意味、「10年やってきた思いじゃないですが、頼むぞと言われ、やりがいがあった」と目を輝かせる。
逆に2015年は「今まで何をやってきたのか」と、猛省で終わった。自分は守備の人とする井上が、昨シーズンに初めて経験した「代打の切り札」。ブルペン捕手を務め、投手のコンディションづくりをサポートしながら、試合の終盤だけに出場機会がやってくる。1年を締めくくる日本選手権、井上は9回の先頭打者でコールされた。「徹底事項だった、ファーストストライクが振れなかった。さらに見逃しの三振。OBの方からも、なぜあんな打席になったんだと、厳しい声をただきました」。1点を追う展開で、何もできなかった自分を悔やむ。経験があるからこそ、さまざまな考えが頭を巡る。チームに勢いをつけたい、相手に嫌がられる打者でありたい。「正解、不正解は一概に言えないけども、ゲームを以前と違う側面で見られるようになっています。あとは実践です」と力を込める。

「自分らしく」井上 和樹
「キャッチャーがしっかりすれば、ゲームをつくれる。チームの世代交代が進んでいるのは事実ですが、その中で僕が示すべき経験や、プレーがあります」と、井上は自身の役割を語る。チームのために、ファンのためにと終始する井上に、「個人ならば、誰にプレーを見せたいか」とくり返し問うと、柔らかな表情で答えた。「家族。幼い2人の子どもに、自分が野球選手だと分かるまで、続けられたらいいですね。また、父親は僕の一番のファンですし、たった一度だけ、野球をやめると言ったとき、引き留めてくれた存在です。あとは昔からの仲間かな」。
かつて、とにかくやんちゃだったという少年、その面影をのぞかせて続ける。「中学校から仲のいい、15人ほどの男女の友達グループがあって、今も毎年顔を合わせるんです。彼らは僕に、まだ現役で野球ができるの? と言うんですよ(笑)。オッサンだけど、まだやってるぞ! ってところを、あいつらにも見せつけますよ。よく小技の打撃イメージを持たれるのですが、意外性のある一発も自分の持ち味」と、笑顔をはじけさせた。
巧みなリードと、集中力を研ぎ澄ます打席。
33歳、チームで2番目のベテラン選手が奮起する。
ブルペンかもしれない、大舞台かもしれない、
どこにいても、井上和樹は全力で戦う。



