野球とは自分をアピールできる場所。自分が成長できる場所。
支えてくれた両親に、学生時代の恩師に、採用してくれたチーム関係者に応えるためにも、
ベストを尽くしたプレーを後界は誓う。
負けん気の強いヤンチャ坊主

「物心ついたときから親父に植え付けられていたようです。“野球はしないとダメなものだ”と。」
では、自分の意志でやっていると感じた時期は?
「・・・社会人に入ってからですかね(笑)。」と軽口を連発する後界。
“ピックアップフェイスの取材を待っていました!”と、サービス精神旺盛なトークが続く。
出身の尼崎は野球の盛んな地域で、小学2年で少年野球チームに入団。「ぼくのチームは、メンバーが少なくて、2年から試合にずっと出ていました。だから?弱かったですよ。でも、楽しんでやれました。写真を見ても、小さい子どもが長~いバットを持って笑っています。」と愉快そうに話す。

中学は、チームの仲間とともに野球部へ。「ぼくらの学年は強かったんです。他校にスーパー中学生と呼ばれる子がいたんですが『それがどうした』と。」負けん気は、この頃から強かったようだ。「当時はピッチャーで、そのスーパー君を抑えては『たいしたことないな』と。ビッグマウスでしたね、ヤンチャ坊主でしたから。」そう笑う後界は、いまも中学生のようだ。
「最上級生になってすぐ尼崎市で優勝したのですが、最後の夏はすぐ負けました。尼崎から出たことがなかった(笑)。」大きな欲はなかった。仲間と楽しくできればいい。部活をエンジョイしていた毎日。しかし、「父の友人が神港学園の出身で。会社帰りにぼくらの練習をご覧になって、“ショートの子がおもしろい”と。そう父に話したら、『それはオレの息子だ』と(笑)。」“神港学園がどんな学校かまったく知らなかった”と頭をかく後界は、出会いに恵まれて大きなステップを踏み出す。
恩師に鍛えられ、支えられて。
入学後すぐ、『キャッチボールがなってない。お前を推薦でとって失敗した、出ていけ!』と監督に怒鳴られて、後界の負けん気に火がつく。「どれだけ叱られても食らいついていきました。引退のとき『野球人生で一番叱りやすいキャプテンだった』と監督から言われました。」そう後界は笑い、少しだけ胸を張る。

高校で、“野球観がガラッと変わった”という後界。1年の秋でレギュラーに抜擢。だが甲子園は遠い。2年の秋は近畿大会で初戦敗退。3年の春は県大会ベスト8。そして最後の夏は「18年ぶりの初戦負け。泣く間もなく終わりました・・・。」結果は出せなかったが、後界にはいくつもの大学から声がかかったという。
進路は監督任せ。夏休みに、監督から「立命館大学のセレクションに行ってこい、明日だぞ。」と電話がはいる。「身体を動かしていなかったので、慌ててランニングして、バッティングセンターで調整しました(笑)。合格は確信していましたね。当時は天狗だったから。」と後界は笑う。「裏では、監督をはじめ多くの方が動いてくださっていたんでしょうね。」感謝の心も忘れない。“甲子園なんかどうでもいい。野球を通して人間をつくれ”という監督の教えが刻み込まれているのだろう。

立命館では「井の中の蛙だったことを痛感した。」と後界。プロ級の選手がゴロゴロいて、飛距離も球速もケタ違い。当時ポジション争い3番手の後界を、「ショートを守っていた先輩が就職活動すると辞められて。ひとつ上の先輩も大会前に骨折。タナボタで、2年秋のリーグ戦からレギュラーに入りました。」と運も味方する。3年の春秋にリーグ優勝。夏の神宮大会出場を果たす。初めての大舞台は、スタンドの風景が今までとまったく違う。「緊張しました。脚がガクガク震えて。あっさり初戦で負けちゃったけど。」振り返るとタイトルとは無縁の学生生活だったと、後界は苦笑する。
挫折を知って見つけた大切なもの

パナソニックとの出会いは大学3年のとき。練習試合で松下電器と対戦し、たまたまヒットを量産。当時の北口監督から“もう就職は気にしなくていいから”と。「何の実績もない選手なのに。チャンスをものにする力?ええ、持ってますね(笑)。」と茶目っ気をみせる。
社会人野球の第一印象は「みんな、こんなに考えて野球をやっていたんだ!」ということ。「守備の連携、ゲッツーの脚の運び方、ボールを取る手首のカタチ、細かく理論を説明されました。自分は感覚だけでプレーしていたので、いまさらながらに野球は面白いなと。お手本になる先輩がいて、下からも入ってくる。刺激に満ちたこの環境は素晴らしい。」としみじみ語る。
2年目、3年目とレギュラーに定着。順風だった後界に転機が訪れる。「都市対抗の補強選手として、他チームから選手が来て。ぼくの替わりに試合に出るんです。『ぼくのポジションは補強ポイントなんだ』と頭では理解するけど、やっぱり悔しいですよ。発奮して頑張りました。なのに、翌年の都市対抗の前に肉離れ。そのあとずっとポジションを失いました。」

ベンチにも入れない。ふて腐れていた。辞めようと思った。スタンドで“オレが出ていないし、勝とうが負けようが関係ない”と考えている自分がいた。後界は正直に告白する。「ふと気づいたんです。『こんな選手がいるチームが勝てるはずがない』と。全員がひとつの目標に向かって戦わないといけないのに・・・。」5年目、後界は副キャプテンになった。そして3月の沖縄キャンプで、大先輩の梶原選手に声をかけられた。「お前、辞めようと思っていただろう。」と。見抜かれていた。話をしながら泣いた。「チームへの思いや両親への思い・・・ いろんなことが思い出されて、涙といっしょに流れて、今、きっちり吹っ切れてます。」おだやかな声で、ひと言ひと言を噛みしめるように話を進めた。
後界は変わる。後輩に “やれ!”と頭ごなしに指導していたのが、言葉を選ぶようになった。率先して雑用をするようにもなった。野球人でありながら、人として成長したい。野球技術だけでなく、心の底から大切にしたいものを見つけた。試合に出る喜びと出れないつらさを知った後界は、断言する。「一人ひとりがチームのために何ができるか。自分の役割を考えて実行すれば、パナソニック野球部は必ず強くなる。」
周囲に振りまく笑い。愉快ないたずらも大好き。
その陰には、チームを盛り上げるための繊細な気配りがある。
人として。そして野球人として、後界はフォア・ザ・チームを追求する。



