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ピックアップフェイス

藤井 聖太

チームの命運がかかるマウンド、大舞台でこそ投手は燃える。先発すれば完投、完封だけ考えて、投げる――人に頼ることをよしとしない藤井聖太には、個の強さがみなぎる。自らに使命を課すように「ピッチャーは、任されてナンボ」、と笑みを浮かべる。崇高な自覚と、勝負師の闘争心を携えてマウンドに立つ。

練習漬けの少年時代

大事なのは負けないこと、スポーツとはそういうもの。野球人・藤井はそのスタートから、勝負の厳しさをたたき込まれた。小学3年で加入した、軟式の長曽根ストロングス(堺市)。フライを捕ることもままならかった10歳の少年が、遊びとはほど遠い高度な野球を学んでいく。「とにかく監督が怖い方で、失敗しないように、怒られないように、とそればかりでしたね」と笑う。好きなように打つなど、もってのほか。細かなサインの連発で、エンドランを多用する緻密な攻撃がチームカラーだった。

走者を進めるのが最低限の仕事、凡フライでもあげれば「なんで打たれへんねん!」と監督の雷が落ちる。常に一つ先を計算する。「徹底的に教わっているから、前のバッターが無死で出塁したら、頭の中で『盗塁するやろな、じゃあ俺はゴロ打って三塁に進める。次で1点』と。考えるというよりも、自然と勝負勘のようなもので」。毎週末に組まれる練習試合、実戦の中で感性が磨かれた。

こんなチームの練習が、半端なはずはない。水曜・金曜は「いつ終わるんやろ……」と途方に暮れる猛特訓。日が落ちてからは、4年生以上が一列になって素振りが続く。「延々と600回以上振っていました。手袋なしで、ボロボロの手のひらをテーピングでぐるぐる巻いて」。5年生からはピッチャーになり、打っては3番と期待を背負う。戦術のチームにあって、自由にスイングをさせてもらえるのは、4番打者と自分の二人だけ。その分「俺が打たないと負けるっていう責任感、プレッシャーもすごかった」という。さらに、監督同様な厳しい見守り役がもう一人、チームのコーチを務めた藤井の父親だった。「今日は走ったか? いくつ素振りした? と、家で必ず聞かれるんです。毎日、シャドウピッチングのタオルとバットを振り続けていました。父自身もノックが打てないようなところから、練習を重ねて、スコアブックのつけ方も勉強して」。二人三脚で頑張った日々を振り返る。

決断のとき、「自分は投手」

6年生の春、監督が不意にもらしたひとこと、「このチームなら、全国に行けるかもしれない」。目立った戦歴はなかったストロングスが、その言葉通りに堺市で優勝、さらに大阪府大会の頂点に立つ。「大阪から全国へは、夏の甲子園のように7回も8回も勝つということ。でも負けなかった。水戸の全国大会でもベスト4、結果的に、6年の時に負けたのは準決勝の1回だけ。全てやりきったと思いました」。充実感に満ちた藤井だったが、もう一つ忘れられないシーンがある。「準決勝で負けたとき、父が一人で泣いていたんです。府大会の優勝から、ゲンかつぎで伸ばしていたヒゲ面で、『剃らなあかんな……』って言って」。父親のためにも、もっと俺がやらなアカン――誓いを胸に地元の硬式チーム、ボーイズリーグに進んだ。

ところが、「小学生の時から考えたら、地獄に落ちたような感覚でした。ものすごく弱かったんです。優勝なんかは一度もなし。すごい落差を経験しました」と、中学時代を淡々と語る。藤井は2年生から実力を認められて上級生チームで登板するも、金属バットが打ち返してくる硬式球は、打ち取ったと感じた当たりが、野手の手元を抜けていく。練習と敗戦の繰り返し、「試合に負けて、コーチから『お前らもう帰れ!』って怒鳴られて。でも昼間に帰って遊ぶわけにいかないし、近くのグラウンドで練習して」と、苦い思い出を打ち明ける。

本人は「中途半端だった」とまで言う中学生活だったが、貴い出会いもあった。野球経験のないコーチがその人で、小学生で鍛えられた藤井は「この人に教わって大丈夫?」と、まず疑ったという。しかし、年齢が近くて面倒見がよい人柄、加えて熱心で野球理論に長けていたコーチは、恩師のような存在に。3年生で進路を考える場面、「高校から野手でと誘いがあれば、ピッチャーをやめよう」と考えていた藤井に、コーチが声を掛けてきた。「長打が打てているが、お前のバッティングは高校で通用しない。可能性はピッチャーの方がある」。打撃に自信があった藤井だったが、この一言で気持ちが固まった。投手として甲子園のマウンドへ、やがてプロのマウンドへ行く――。

初めて、誰かのために野球をする

興国高校に入ると1年から試合に帯同、登板機会ももらって順調に滑り出したが、いざ夏になるとメンバー外に。「言い方は悪いけど、スタンドで応援することに、むなしさがありました。やはり自分が出たい。挫折を味わいました。そうかと思ったら、秋にはバッターで主軸を打ってくれと言われたりして混乱。すっかり自分のプランが描けなくなってしまって」と激動する環境に、揺れた心情を振り返る。監督も察したか、その後打順は9番に下がって、投手・藤井が本格的に始動した。

2年の秋、練習試合の予定表に強豪校の名が。「大阪桐蔭です。あの中田翔(現、日本ハムファイターズ)がいた。ここで勝てれば力が証明できる」と燃えた。しかし、ピッチャー藤井は注目度抜群の中田にホームランを浴びたうえ、打っても最後のバッターとなってしまう。「5-7で迎えた最終回、二死満塁のチャンスで打席が回ってきたんです。フルカウント、真っすぐ1本に絞っていたところにスライダーのボール球を空振り三振でした」。ただの練習試合、それでも悔しくて涙が止まらなかったと、記憶に残る一戦を振り返る。

高校はプロに行くために、自分のためにする野球。そう考える藤井に、違う風を吹き込んだのは、同級生のキャッチャーだった。「自分がキャプテンになったものの、部員を束ねるのに四苦八苦。やんちゃなやつばかりで、授業中に携帯を触るな、メシ食うな! みたいな約束からで大変ですよ(笑)。それを支えてくれたのが彼。きゃしゃな体で身長も低いのに、ものすごい努力をして、正捕手をつかみとった。お母さんと二人だけの家庭で、『おかんのために頑張る』と言って。初めて、こいつの努力を無駄にしたらアカンって思ったんです」と、厚い信頼関係を築いた。カーブ、スライダーを交えながらも、ここぞの場面はストレート勝負という投球スタイルも確立。甲子園の夢はかなわなかったが、藤井は確実にステップアップした。

火花散る大学時代、成長と挫折の先に

しかし、温かな絆から一転、進学した関西国際大で待っていたのは激烈なエース争いだった。背番号なしの白い練習着から1日も早く脱したい、「4年間でプロレベルに。先輩もその道を進んでいたし、自分も含めてそんな投手ばかりが集まっていました。だから、誰かが投げていたら、抑えてくれなんて思わない。何で俺じゃないんだ、打たれろと」。藤井は二人の投手としのぎを削るが、1・2年の間は先を越され埋もれる存在に。相手打者もプロ志望の選手だから、一筋縄ではいかない。ならばと、縦の変化を求めてフォークやチェンジアップをものにしていく。「変化球で決めるために、ストレートをどう見せるか」、今までの藤井にはないピッチングスタイルが生まれていった。

大学野球の華、神宮の舞台で一番の記憶を聞くと「3年秋、東海大の菅野智之(現、読売ジャイアンツ)との試合です。投手戦に持ち込めず、自分は4回途中で降板。めちゃめちゃ悔しくて」と挙げる。「12月の冷たい雨が降って足元も緩い。でも投手は言い訳ができないポジションですし、菅野は同じ状況で150キロを投げ込んできました」と完敗を認める。一方、3年のリーグ戦では大きな手応えもあった。俊足で有名な1番バッターの脚を完全に封じたのだ。VTRでクセも研究もした中、けん制で裏をかく。クイックだけでなく、セットから間合いを変化させ、塁上へくぎ付けに。「俺って、こんなこともできるやん!」、バッター相手だけではない、ピッチャーの力量に目覚めた。

そうして4年の藤井は他を退け、エースナンバー18を手にするが、シーズン前の宮古島キャンプで、投げ込みの最中に肩を壊してしまう。それでも、プロのスカウトが視察に来ると聞けば、痛み止めを打ってでも投げる……。無理を押した結果、4月のリーグ戦半ばで投球ができない状態に。「プロは諦めました。それどころか、ここで野球が終わるか、軟式に転向することまで考えました」。実際、復帰するまでには5カ月を要した。パナソニック・久保恭久監督(当時)が大学側に「藤井をうちにくれないか」と打診したのはキャンプ前の1月。「肩を壊してからも、熱心に『それでも』と誘ってもらい、進路を決めました。おかげで、焦ることなく治療に専念し、来年ちゃんと投げられるように」と前を向けた。

考えぬいた一球を投げ込む

2012年、本調子でない肩を抱えたまま、パナソニックの1年目が始まった。チームが都市対抗出場をすんなり決めた後、久保監督は「俺に預からせてくれ」と、マンツーマンの指導に乗り出す。「フォームも全てリセットしてもらいました。ひざ立ちで2m前のネットにひたすら投げ続ける。上半身の使い方だけを1日500球、次は5mに伸ばしたりと。誰かのアドバイスを真剣に耳を傾けたことも初めてで、ピッチャーの基盤をつくっていただきました」と感謝する。


入社から約2年、藤井は2014年都市対抗で圧巻のピッチングを見せる。JFE東日本戦で挙げた完封勝利、「ただし、あれはキャッチャー足立のおかげです。本人には言ったことないけど(笑)」と、ただ一人の同期の名前を口にする。「緩急のつけ方や配球など、足立のリードがうまかったんです」と殊勲を譲った。6安打され4四球、それでも味方が挙げた1点を死守した。「これが、自分のやるべきことです。まずは0で抑える。とは言っても打たれもするし、そんな時は申し訳ないと思って、バッターに心の中ですんません、取りかえしてください……」と、手を合わせるしぐさでおどける。

2014年は、日本選手権前に左の脇腹を痛めて、シーズンを投げきることができなかった。だからこそ2015年の再スタートは、これまで以上の気迫でマウンドに立つ。「まずまずの試合は、いくつかつくれた。でも、強みを発揮できたと言える試合はありません」と、自分の理想に妥協はしない。「やはり、チームの1年を左右するような大事な試合で、どんな一球が投げられるかです。信条は考え抜いた投球。一試合を投げきるつもりで自分を貫くだけです」と言い切る。


「努力」藤井 聖太

「大舞台で投げる姿を、家族にも見せたい。そして、今まで自分の野球に携わってくれた人たちに、高校時代を支えてくれたキャッチャーの彼にも、『藤井はこんなピッチャーになりました』と分かってもらえたらうれしいですね」。目指す大舞台は明確だ。「目標は、選手権優勝の5文字。それだけです」。補強選手で日本生命に加わり、都市対抗優勝を経験、「そこで分かったのは、ドームで5つ勝つには、選手個々の準備が大事ということ。その積み重ねで、普段以上の力が出る。『こんなにすごいバッターだったか、こんな球を投げていたか』、そんな選手を目の当たりにしました」。勝利への執念が、個の強みをさらに引き上げる。投手の柱、藤井がもう一つ上のギアで投げ込むとき、悲願の頂きに手が掛かる。

(取材日:2015年9月7日)

座右の銘は「努力」。
本当に努力できているかは、自分だけに分かること。
藤井の姿勢は、頑として揺れない。
勝負のマウンドで、一球一球が勢いを増す。

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