Panasonic Sports

ピックアップフェイス

秋吉 亮

「プロ野球ドラフト会議2013」が行われた10月24日、多くの報道陣がパナソニック ベースボールスタジアムに詰めかけた。期待と高揚感が渦巻く中、東京ヤクルトスワローズ3巡目のコール、「秋吉 亮、パナソニック」。満面の笑みでプロの扉を開く秋吉選手が、これまでの野球人生を振り返った。

幼くして味わったチームスポーツの醍醐味

小学1年の秋吉が野球を始めたのは、「足立ジュニアヤンガース」という地元のクラブチームだった。幼い頃は体が丈夫ではなかったため、体力づくりにと加入したが、「毎日の練習はきつくて……」と、野球の基礎が磨かれた少年時代を振り返った。

メンバーが9人そろわない時もあり、地区大会へは、近隣の同じような境遇のチームと連合して出場した。小学生最終学年の大会で、なんとその選手寄せ集めのチームが関東大会を勝ち上がることになる。「決勝戦は、横浜スタジアム。そして優勝。目の前で起こっていること全てが夢のようでした」と、厳しい練習に耐えて努力が実った充実感、仲間と一丸になって頑張り抜く心地よさ、チームスポーツの醍醐味を知ったと笑顔で語る。当時のメンバーが秋吉を入れて3人も社会人野球で活躍していることも明かしてくれた。


ジュニア仲間が強豪中学校に進学する中、地元の公立中学に進学した秋吉は、学校の野球部とジュニアヤンガースの中学部『足立ヤンガース』の2足のわらじを履きつつ、野球にのめり込んでいくことになる。足立ヤンガースには中学校の部活仲間を引き入れ、平日は部活、土日はクラブチームの練習に精を出した。

秋吉は「試合に出ることで結果を残し、高校、大学へとステップアップしていきたい」と考えていた。当初は内野手や外野手も経験し、2年生になると捕手に指名される。「正直なところ、あまり気乗りはしませんでした。肩も強くなかったので……」と、屈託なく笑う。彼が選んだ道は、いわゆる"野球のエリートコース"ではない。しかし現実を素直に受け止め、野球と真剣に、そしてまっすぐに向き合う姿勢で、直面する課題を克服する力に変えていった。

サイドスローで投手の才能が開花

高校も私立の強豪校ではなく、地域の都立足立新田高校へ進学。何よりも試合に出て、自分の力を試すチャンスをうかがい、1年生の夏の大会ではファーストでスタメン入りを果たした。練習ではバッティングピッチャーを務めたり、ブルペンでピッチングに挑戦する秋吉の姿を見つめていた畠中監督は、3年生の引退後、彼を投手に抜てきした。

監督に教えられたのは、サイドスロー。「現在のフォームよりも下投げで、球種もストレートとスライダーだけ。早速、秋の大会で使ってもらって」と、初めて試合でマウンドに立った時のことを話し始めた。初戦の明治神宮野球大会では惨敗、2年夏の大会もコールドで敗れるが、秋に名門の早稲田実業と対戦し、投手・秋吉は手ごたえを感じ始める。斎藤佑樹と投げ合い1-3の惜敗に終わるも、中盤までノーヒットで抑えたことが自信となった。

以降、"新田屈指のサイドスロー"として頭角を現すことになる。右腕から投げ込まれる139km/hのストレートで、3年夏の東東京大会はベスト4まで駆け上がり、都立新田高初の快挙を果たした。しかしその先にあったのは、甲子園常連校との圧倒的な実力差。「まだまだ上がいるということか」と、奮い立つ自分を感じた。憧れ続けてきたプロ入りを意識しながらも、「挑戦は、大学で力をつけてから」と決意。声を掛けられた7校のうち、中央学院大学を進学先に選んだ。

大学では1回生からエースとして、大きく曲がるスライダーを武器に数々の三振を奪う活躍を見せた。しかし、名声に浮かれずフォームを修正しながら、持ち味であるスライダーのキレを追究した。集大成となる4回生時は、春季リーグ戦でMVP、最多勝、奪三振王、ベストナインを獲得し、全日本選手権8強入りにも貢献した。並みいる強豪校に立ち向かい続けた大学生活。一つひとつの経験が秋吉を確実に強く、大きく成長させた。「でも、プロに行くにはあと一歩、まだ何かが足りない」と、プロへの志願届について当時の菅野監督と相談した結果、社会人野球の道を志した。

社会人1年目、自分の弱さを知る

大学3回生の頃から誘いを受けていたパナソニックに入社。しかし、意気込む秋吉の気持ちとは裏腹に、体はすぐに悲鳴を上げた。投げ込みによるひじの故障だ。「こんな調子では、試合で使ってもらえても連投はできない」と思い知った。10月開催の日本選手権にも復調せず、チームの戦いぶりを見守ることに。試合を見てあらためて、「山本(隆之)さんのピッチングに圧倒されました。冷静かつ攻撃的に、チェンジアップだけでバッターを揺さぶる。精度の高い配球が戦略にぴたりとはまる――」これは、今の自分にはまねできないと。

約半年間に及ぶ投球制限が終わると、いても立ってもいられず投げ込みを徹底。「何試合でも連投できる体をつくる。誰にも負けない強さを身に付けよう」と必死にもがいた。練習が終われば、自主的に走り込みをする先輩・山本の背中を追って走った。練習量や質、これまでとは全く違う、新たな姿勢で取り組む必要があった。

自らに向き合い、コツコツと積み重ねた努力は、次第に成果となって表れる。2年目の2012年は、JABA九州大会優勝、都市対抗ベスト8、日本選手権ベスト4と、チーム躍進の原動力に。日本代表にも選出され、BFAアジア選手権大会の優勝に貢献。最優秀選手賞、奪三振王を獲得した。

そんな秋吉に、当時の久保監督は必要以上の助言をしなかったという。投球に関しては、学生時代から自ら映像を見てフォームをチェックし、改善点を洗い出して修正していくスタイルが完成されていた。その姿を見守っていたチームメイトの後界昭一(2013年・パナソニック野球部引退)は、「普通は、いいか悪いかなかなか自分では判断できないものです。自ら変えるべきポイントを理解し、柔軟に対応することができる。そうした"変える姿勢、変える勇気"が彼の強みだと思います」と語る。

パナソニックで培った人間力を携えてプロへ

3年目となった昨シーズンは連投に安定感が増し、2ケタ奪三振、完封勝利という結果が際立った。秋吉は、フィールドで一人相撲をするタイプではない。公式戦でも練習試合でも、マウンド上で野手と会話し、呼びかけに反応するシーンが多く見られる。自然と周囲への目配り、気配りができる選手に成長した。

そんな秋吉にとって社会人野球で最も印象に残る試合は、昨シーズンの日本選手権大会初戦のJX-ENEOS戦だという。社会人野球4大会連続覇者との注目の一戦、過去の雪辱に燃え、チームには並々ならぬ気迫があった。秋吉はバックの粘り強い守備に盛り立てられ、完封勝利。「ドラフト指名後の大会で、どうしても勝ちたかった。打たせて守り、狙った三振は必ずとる。チームで描いていた全員野球が、プレーとして表現できた試合でした」と、充実した表情で振り返る。

さらにチームへの思いを続けた。「パナソニックでは、先輩投手はもちろん、野手の皆さんの守りと打撃に支えられて、投手として多くの試合経験を積ませていただきました。失敗もありましたが、そこから学び、信頼を培う過程も大きな教えでした」。

選手として躍進し、社会人たる心得を学ぶステージだった、とパナソニックでの野球生活を振り返る。武器は即戦力のスライダーと人間力。憧れ続けたプロのユニフォームを着ることになった秋吉は、表情を引き締めて「もちろん目標は、新人王。先発投手として数多く出場できるように頑張りたい」と意気込みを語った。田中、前田、菅野……、一足先にプロ球界で暴れている88年組が待つ。「同世代との戦いが楽しみ。絶対に負けませんよ」と、力強く言い切った。

(取材日:2013年12月17日)

東京都立高校初のプロ野球選手。
初めて立ったマウンド、神宮球場に笑顔で帰る。
原点を見つめ、変化を恐れず前に臨む。
その背番号『14』が、後進へと夢をつないでいく。

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