Panasonic Sports

ピックアップフェイス

安部 健太

「ポン、ポン、ポンとアウトを取れば、試合に流れができる」。ゲーム後半のマウンドは中継ぎ投手の見せ場だが、安部健太は至ってクールにベンチへ引き上げる。「ずっと大事にしてきたのが投球のテンポ。今は自分のものになって、意識せずにできています」と自己分析する。3年目、落ち着いたマウンドさばきが安部の真骨頂だ。

1年目の苦悩、サイドスローに転向

このままでは普通のピッチャー、他と比べてもとび抜けた部分がない……。パナソニックのルーキーイヤー、目立った成績を挙げられなかった安部はベンチからもたびたび外れ、苦悩の1年を過ごした。「スタンドから試合を見ながら、このままじゃ俺は終わってしまうと。悩みに悩んで、決断しました。年明けにスリークォーターからサイドスローへの転向を監督さんとスタッフに話しました」。入部当時、安部のセールスポイントは多彩な変化球の投げ分けだった。「テンポ良く投げて打者を打ち取るタイプでした。でも1年目が全然だめで」。自ら変化を求めて、大学で一度試したサイドスローの選択を決断した。

「大学でサイドをやってみたのは1カ月間だけ。当時は監督に戻せと言われて従ったのですが、自分の中ではしっくりきていたのに……と、惜しい気持ちがありました。パナソニックの1年目では大事なところで使ってもらえなかった、グラウンドに立てないモヤモヤを吹っ切るためでもありました」と振り返る。右投げのサイドスローにとって、最大のポイントは右打者との対戦。「右を抑えてなんぼ。右腕が見えにくくなる左肩の入れ方や打者との角度を特に意識しました。ボックスに立つ右打者に聞いて、球筋が見えにくいように体の開きを調整したりも。改めてサイドスローと向き合うと、奥が深いと感じました」。今までに経験のない筋肉の張り、初めは歩けなくなることもあったという。

決意の2016年、安部は春のJABA大会をきっかけに、年間を通じて存在感を発揮した。「中継ぎ、メイン、どこでもいけるし、いつでもいけるのが自分の特長。肩はすぐにつくれる方なので、試合展開の中で急な場面でもブルペンで少し投げたらすぐにいけます。父が高校まで野球をしていたのですが、肩がめっちゃ強かったらしくて。親譲りですね」。たくさんの球種、その日のコンディションを自分の中で見極めてからマウンドに向かう。「投げる試合はゼロに抑える、そう思ってマウンドにあがります。中継ぎという役割はランナーを置いた状態の出番も多い。チームが目標に掲げている『一』を、僕は一球目から大事にすることと捉えています。初球からいいボールを投げこむことです」。闘志を内に秘めるポーカーフェイスの安部。自身が歩んできた球歴も、サラサラと振り返るが、ふと立ち止まるように心が揺れ動いた日、転機となったシーンを思い出す。

投げて打っての少年時代

大阪市生まれの都会っ子。「市内にチームがいっぱいありましたし、野球は盛んでした。物心つくとキャッチボールを始め、親に連れられて甲子園に野球観戦にも出掛けるようになりました。僕は小学校3年生でソフトボール部に入ったのが最初で、友達に誘われて5年生から軟式チームの森之宮キャッスルへ。でも……全然楽しくなかったんですよね。自分からやりたい!って気持ちがなかったですね」と苦笑する。ポジションは投手で、打っても中軸。試合をする中で、6年生の最後になって興味が芽生えた。「抑えて勝つ、自分が打って試合に勝つのがうれしいなと感じはじめました。そこから、本庄中学校で軟式野球部へ。小学校からの仲間とワイワイとやる野球部、実力も地区で優勝するかしないかぐらいで楽しくやっていましたが、また友達に誘われて2年生から硬式チームに移りました」。

加入した生野ベースボールクラブは少人数で、同期は3人だけ。「打順の下位は1年生なので上級生が並ぶ6番打者までが得点源、そこで打てないと負けるのがパターンでした。また、監督はものすごく厳しい方で、練習の日はピリピリとしながら野球をしていました。人数も少ないから、目が届くし余計にです。気合いの人、というイメージは梶原監督と似ています」。ただし、打てるエースが特別待遇だったのも事実で、丸刈りが嫌で髪を切らなかった自分が、なぜか許されていたと安部は笑う。「怒鳴られもしながら厳しい練習をしていくうちに、気持ちの面も変わってきて。打球も飛ぶようになるし、特に3年生からメチャクチャ面白くなりました。高校でも野球をやりたいと思うようになったころに、監督からの『倉敷高校へ行け』という一声で進路が決まりました」。中学時代は、とてもスローに、のんびりと野球をした安部。平日はとにかく自由で、思うままに自主練習をしていたと懐かしむ。

倉敷高校に入って、最初にショックを受けたのは先輩投手のボール。「これは無理だって思いました。ピッチャーの目で見ても、打者の目で見てもかなわない。実際にその人はプロに行きました。登板機会はその先輩が引退した1年生の後半から」。打撃も大好きだった安部は、当初6番を任されていたが、自分の世代になってからは自ら9番バッターを志願。「キャプテンが打順を決めるんです。ピッチャーが9番だと、相手から甘くみてもらえる。こいつは打たんわ、と初球からド真ん中がくる。どの試合でも打てて、長打もありましたね。もう、早く打順が回ってこないかな、打ちたいなあって」。投げたい、打ちたい、できれば野手もやってみたい――。大阪から離れて野球に打ち込む充実した毎日だった。当時の同期は結束が固く、今でも飲みにもいく親友だ。「プロに行った先輩も今は引退してしまったし、上下を見ても野球を続けているのは僕だけ。だから頑張れと言われますし、背負っちゃっていますね(笑)」。

高校野球で最も印象に残っていると挙げたのは、3年生の最後の夏。「一番悔しい試合です。1回戦負けした夏の予選。僕は温存って形で先発しなかったんですが、それが裏目。3点取られてからの3番手で5回からいきましたが、時すでに遅し。そこからは抑えたけども、3-0のまま打てなくて完封負けです。試合の後、みんな泣いていましたが、僕はぽか~んとして涙も出なかった。何しに倉敷まできたんやろう……。真っ白になって、ほんまに野球をやめようって思いました」。あまりにショックが大きく、コーチから進路を示されてもかたくなだった安部。「絶対にかからないと分かっていたプロ志望届を出してみたり、進路についてもすぐには決められませんでした。その後、大商大に入学を決めましたが、練習見学を見ても正直、ビビッとはこないまま。地元の大阪だし、まあいいか、頑張ろうくらいの軽い気持ちで」。

投手リレーの醍醐味

近藤大亮選手(2015年)

今やその名は“東の亜細亜、西の商大”と全国に響き渡るが、「当時の大商大は弱かったです。初めて見たチームも、まあ普通かなと。こんなに強くなるとは想像していませんでした。1年生のときはリーグ最下位の連続で、『何やこれ?』みたいな。全然面白くもないし、負けグセがついてしまったというのか、そんなチームでした。自分も1年生の春から投げる機会はあったのですが、結果はよろしくない。2年生の最初、監督からの一言が強く記憶に残っています。『気持ちが足らん』と。そこが変わるきっかけでした」。高校時代をひきずり、身が入っていなかったと振り返る当時、ここから一気の上昇気流に乗る。

「思えばすごいメンバーです。パナソニックからプロ入りした近藤大亮さんが1年先輩で、同期に金子丈がいて、一つ下には岡田明丈、吉持亮汰も(いずれも後にプロ球団入り)。2年生の秋に6チーム中で4位になると、だんだんムードが変わってきました。3年生の秋は優勝して神宮へ。いきなり強くなりました」。明治神宮大会、安部は明治大学戦でビハインドの7回からマウンドに立ち、2インニングをゼロで封じた。「相手は甲子園で活躍したスーパースターばかり。うわ~と高ぶっていました。こんなこと、そうないよなと。結果チームは負けましたが、2回を抑えて手応えを感じました。ただ、4年生になった自分たち世代はリーグ3位ばかりで、結果が出ませんでしたが」。

大学時代のベストピッチングは、3年生のときに神宮行きがかかった第一代表決定戦。リーグ優勝から関西選手権、さらに決定戦の初戦を勝って、次で神宮が決まる大事な一戦。ここで安部は先発を告げられる。「ここで俺? と驚きました。それまでに先発した試合もありましたが、大半は中継ぎでしたし」。今までの中で一番緊張した試合と振り返る。大阪体育大を相手に6回を1失点の好投でしっかりとゲームをつくった。「スライダーと小さなカットボール系で追い込んで、決め球はチェンジアップ。球種の多さを生かせましたし、大学時代のナンバーワン・ゲームです。最後はサヨナラで勝って、メチャクチャうれしくて。やはり投手陣の層が厚かった。基本、近藤さんが先発で、同期の金子も控えている。どの試合も継投の連続で、自分もフル回転できた」。投手陣がつないでつかみとった神宮への切符。安部は「フル回転」の言葉に力を込めた。

真っすぐで勝負する投手に

2016年7月 都市対抗

急激に強くなっていく大商大、自主練習の参加メンバーも自然と増えていったという。いつしか「自分も、やらなアカンって思っていました。入学当時とは全然違う気持ちで。だだ、その後結果が出ていなかったですし、大学を出ても野球ができると思っていなかったんです。そこに、パナソニック野球部どうや? と大学の監督からお話をいただいて。パナソニックとのオープン戦も経験させてもらえて、その対戦で感じたのは、体の大きさ、打球の飛び方・距離の違いでした。入部が決まってからは、ここでやっていけるように、勝てるようにとトレーニングの日々でした」。それでも体は細かったし、2年目までは何かと変化球に頼って「かわすピッチングスタイルだった」と過去を分析する。ただし、それはもはや捨て去ったもの。

2016年の都市対抗本戦、大舞台で味わった2失点。「本戦の雰囲気に飲み込まれました。普段はないのですが結構緊張してしまい、コントロールミスになりました。非常に申し訳ない気持ちですし、絶対に忘れない」。この試合は、安部が次の一歩を踏み出す大きな経験になった。さらに昨夏の猛特訓、完投型を目指す投手トレーニングは「暑い中で、走りこみとトレーニングの連続で心が折れそうでしたがついていくしかないと。これまでの野球経験でも、なかなかの厳しさでした」と苦笑するが、疲れると腕が上がってくる悪癖がなくなり、基礎体力は着実にアップ。「秋のオープン戦は先発もさせてもらって、いけるとこまでいく訓練ができました」と自信をのぞかせる。常に力強く、真横から。もう腕は上がってこない。

「突き詰めれば、真っすぐ。今はそう考えています。監督からのアドバイスもあり、昨年の冬から意識して体重を増やしました。少しでもパワーをつけるため。3kgあげて今は75kg。カギは真っすぐでどれだけ押せるか、そうすれば変化球が生きてくる。まだまだ、キャッチャーにも聞きながらでこれからの段階ですが」。良いイメージは2016年の日本選手権。ベスト4をかけた王子戦で7回-8回を封じた投球だ。結果チームは敗れたが、2点差のまま終盤を踏ん張り、最後まで分からない試合展開に持ち込んだ。「今までのようにスライダーでかわす投球ではなく、真っすぐで押して抑えられたのが大きい。コントロールの精度も良く、低目に伸びるようなボールが投げられました」。技巧派から変貌を遂げた「2017年の安部」は、スタンドのファンにとって、大きな注目となる。

(取材日:2017年3月9日)

背番号30は、どこか安定感のあるイメージ――。
「選んだわけじゃないけど、今はいい番号だなと」
心身ともにたくましさを増していく安部、
その上昇カーブは、まだまだ続きがある。

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