夏の都市対抗野球、1回戦。フルカウントからの先制ホームランでチームは確実に勢いを手にしました。均衡を破るその一撃、ダンテ選手にはそこが東京ドームであることも、観客の数も関係ない。ただ、自分に集中している。「できる」――と。打てば柵越え、広島県下に名をはせたリトルリーグ時代。大阪桐蔭の主軸を担った高校時代を経て、自らの野球人生の転換期となった大学時代の経験を聞きました。
DATA
- 広島県出身
- 中学では広島瀬戸内リトルシニアに所属
シニア西日本代表に選抜され、オーストラリアで交流試合に参加。 - 大阪桐蔭高校では3度の甲子園出場を果たす
3年生時には副キャプテンを務め、センバツ高校野球で全国制覇に大きく貢献 - 國學院大学では、4年生時には東都リーグで本塁打・打点王を獲得し、
春秋通じて全国大会に出場した - 昨年は怪我で出場機会が無かったものの、今シーズンからは打線の主軸として奮起する
都市対抗野球大会初戦ではレフトスタンドへ特大ホームランを放つなどの活躍
諦める覚悟で
自分が一番成長したと感じるのが、國學院大学3年生の秋。当時の打率は2割5分で、進路は決まらず、肩をけがした状態でした。このままリーグ戦が終われば、野球人生は終わりだと思って……。「これでだめなら諦める」と臨んだのが、バッティングの改革。大きく三つ、バットの出し方(軌道)、タイミングの取り方、フォームのくせを思い切って変えることにしました。数カ月は打球がまともに飛ばず、バットを何本も折る日々。うまくいくか分からなかったけれど「これは自分で考えて決めたことだ」と後戻りはしなかった。誰かに言われたことではないから言い訳もできない、「俺がこう考えたんや」と取り組むことが重要でした。結果、4年の春季リーグでは本塁打と打点の2冠を獲得。大きな転換点になりました。
目標、10割!
出身は広島の江田島。小中学生のころは「ザ・お山の大将」でした。ゲームや漫画は好きじゃなくて、目の前の海で泳いだりしてとにかく体を動かしていました。そのころの「野球をやれば打てて当たり前」「常に5割以上、ホームランも連発!」という感覚が、自分の中にずっとあります。もちろん今はレベルが全然違うのですが、「もっとできるはず」というイメージは変わらない。ありえない考えですけど、目指しているのは10割バッターです。「ここに投げておけば大丈夫だ」という穴がない。「どう抑えればいいんだ?」と思われる選手でありたいですね。
再戦に燃える
ホームランを打ったら「よかった」、と気持ちは次の打席へ。逆に打ち取られたら、闘志に火が付きます。印象的な変化球を放り込まれたら、そこから「あの球を打つために」と取り組みます。例えば大学2年生の時に、亜細亜大の松本健吾投手(現:トヨタ自動車)に手も足も出ず、3三振を喫しました。それからは「松本投手の球を打たなければ、この先は通用しない」とスイッチが入って。バッティング改革の理由の一つにもなりましたね。その後の再戦は、自分がやってきたことの結果が出る“一番燃える場面”。松本投手との再戦では、ヒットとホームランでリベンジできました。チームとしても、春夏連覇できたのでよかったですね。
野球選手としての掟
- ① いかに効率よく質の高い練習ができるか
- ② 自分はもっとできる選手だと思い続ける
- ③ 調子が悪くとも最高のプレーを