ムードメーカーと言えば大坪選手。昨シーズン、田中監督は大坪選手を「チームを高めてくれる、非常に重要な選手」と話しました。キャッチャー陣はもちろん、さまざまな選手とコミュニケーションを取る姿が印象的です。大坪選手にとってのチームワークとは。どんなことを考え、実行しているのかを知りたくなります。幼いころのことから振り返ってもらいました。
DATA
- 佐賀県出身
- 神村学園中学時代はリトルシニア日本選手権大会で準優勝を果たす
- 神村学園高校では1年生から主力として活躍し、チームを3度の甲子園出場に貢献
- 亜細亜大学進学後は選手、学生コーチと経験を積み卒業後はパナソニックへ入社
- 6年目のシーズンを迎える来季も、野球だけでなくチームのムードメーカーとしての活躍も期待される
白米LOVE
実家は佐賀県の焼き鳥店。小学校のころは、ご飯がおいしくて朝から白米を2合近く食べていました。それでも足りず母のパンまで……。いつも気持ち悪くなるギリギリまで食べていました。大根のみそ汁だけは苦手で、母と「食べる、食べない」の攻防をしてから登校していたなあ。そして、よく寝る子でした。21時台になると眠くて、眠くて。ぐんぐん大きくなり、卒業時には身長167センチでがっちりした体格でした。2年生から始めた野球では、当然のようにキャッチャーを任されました。それからは結局3、4センチしか伸びず、今に至ります。中学の寮生活で寝る時間が遅くなったので、成長が止まっちゃったのかな、なんて。
12歳で選んだ道
6年生の時、テレビで「夏の甲子園」を見て神村学園に憧れ、父に「ここに行きたい!」と言いました。すると調べてくれた父が「中学もあるぞ」と。それですぐにセレクションを受けて、鹿児島での寮生活を決意しました。みんなと同じ中学に進学するより、野球とか寮生活とか、何か違うことをしたかった。ちょっと変わった子だったんです。12歳で親元を離れ、振り返ればずっと好きなように生きてきたと思います。姉と弟2人の4人きょうだいで、僕が一番家族に心配も迷惑もかけてきました。特に姉はたくさん我慢もしてくれたはずなので、感謝に尽きます!
僕が社会人野球へ!?
神村学園で中学・高校時代を野球にささげました。指導は厳しかったけれど、嫌になったりすることもなく。亜細亜大学時代は指導者を志そうと、学生コーチに就いた期間もありました。チーム事情で選手に戻りましたが、試合にはあまり出ていなかったんです。だから自分が社会人野球の選手になれるとは全く思っていなくて。パナソニックから声がかかった時は、「そんなハイレベルな世界でやる自信はありません」と何度も断りました。声を出す姿を目にとめてくれたのでしょうか。当時の監督が、本当に熱心に誘ってくださったおかげで、野球選手としての自分があります。
野球選手としての掟
- ① 悔いのないよう、1日を過ごす
- ② やるときはやる、休む時は休む
- ③ 目配り、気配を心掛ける