ジョルジュ・ルオー 略年譜
年(年齢) | できごと | |
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1871年(0歳) | 5月27日、パリのベルヴィル地区ラ・ヴィレット街51番地の地下室で、パリ・コミューンの崩壊前日、砲撃の最中に誕生した。父アレクサンドル・ルオーはブルターニュ地方出身の家具職人、母はパリ生まれのマリー・ルイーズ。6月25日、サン゠ルー教会で幼児洗礼を受ける。 | 写真 |
1881年(10歳) | 母方の祖父で郵便局員のアレクサンドル・シャンダヴォワーヌのもとをしばしば訪ね、ドーミエやクールベ、マネ等の版画コレクションを見る。祖父は孫の才能をいち早く見抜き、将来画家になることを願う。 | |
1885年(14歳) | ステンドグラス職人のもとに徒弟奉公に出る。初めタモニ、次いでイルシュ親方につき修業する。古いガラスの修復に従事しつつ、夜は国立高等装飾美術学校に通う。祖父アレクサンドル死去。この頃はじめて旅行をし、父の故郷ブルターニュ地方を訪れる。 | |
1890年(19歳) | 12月3日、画家になる決心をしてパリ国立高等美術学校に入学。エリー・ドローネの教室に入る。 | |
1891年(20歳) | 9月5日、ドローネ死去。 | |
1892年(21歳) | ドローネの後任にギュスターヴ・モローが就任し、ルオーをはじめマティス、マルケ、マンギャンらの指導にあたる。キリスト教主題の作品をレンブラント風に描く。 | 写真 |
1893年(22歳) | ローマ賞一次試験に《ゲッセマニ》を提出し三次試験まで通過。最終試験に油彩画《石臼を廻すサムソン》を出品するが落選。 | 《ゲッセマニ》 |
1894年(23歳) | 7月、油彩画《学者たちの間の幼きイエス》によりシュナヴァール賞受賞。 | |
1895年(24歳) | ローマ賞に再度応募し、油彩画《死せるキリストを悼む聖女たち》で挑戦するが落選。審査結果に不満を抱いた師モローは美術学校を退学するようルオーに勧める。初聖体拝領を受ける。 | |
1897年(26歳) | フランス美術家協会サロンに《風景》と《水浴の女たち》を出品。レオン・ブロワの自伝的小説『貧しき女』が出版される。 | |
1898年(27歳) | 4月18日、師モロー死去。遺言によりモローはアトリエと作品を国家に遺贈する。敬愛する師を失い深い悲嘆にくれる。美術学校を退学。姉が寡婦となったため、家族はアルジェリアに一時移住。ルオーは単身パリに留まり、ピガール広場近くに初めてアトリエを構える。困窮した生活のため精神的に行き詰まる。 | |
1900年(29歳) | グラン・パレで開催されたパリ万国博覧会の美術展に《学者たちの間の幼きイエス》を出品、銅メダルを受賞。 | |
1901年(30歳) | 精神的危機から脱するため、西南フランスのリギュジェ修道院に約6ヵ月間隠棲。そこで作家ジョリス゠カルル・ユイスマンスと出会う。 | |
1902年(31歳) | 健康状態がすぐれず、オート・サヴォワ県エヴィアンにて療養。 | |
1903年(32歳) | 1月14日、パリにギュスターヴ・モロー美術館が開館。モローの遺言により館長に任命される。サロン・ドートンヌ創設のため、マティス、マルケ、ピオらとともに尽力し、第一回展に出品。この頃よりサーカスの情景があらわれる。 | |
1904年(33歳) | 作家レオン・ブロワと出会う。サロン・ドートンヌに娼婦、道化師、風景などの水彩・素描を多数出品する。暗い色調と荒々しい描線は、観衆と批評家に酷評される。 | |
1905年(34歳) | サロン・ドートンヌの第16室に《娼婦たち》と題する三部作を出品。うち1点はブロワの『貧しき女』から着想をえた悪徳の人物プロ夫妻が描かれる。この年のサロン・ドートンヌの第7室には、マティスやマルケらによる激しい色彩表現が特徴的な絵画が並び、これを見た美術批評家のルイ・ヴォークセルが「野獣(フォーヴ)の檻の中にいるようだ」と評する。哲学者ジャック・マリタン夫妻にブロワの紹介で会う。 | |
1906年(35歳) | 2月、パリの画廊ベルト・ヴェイユにて展覧会。 | |
1907年(36歳) | パリ郊外アニエールに住むセラミック職人アンドレ・メテの工房に通う。画商アンブロワーズ・ヴォラールに会う。 | 《水浴の女たち》 |
1908年(37歳) | 1月27日、画家アンリ・ル・シダネルの妹マルトと結婚。彼らにはジュヌヴィエーヴ、イザベル、ミシェル、アニェスと一男三女が生まれる。前年から始まった「法廷」主題の連作、農夫、労働者の絵を描く。 | 写真 |
1910年(39歳) | 2月24日から3月5日まで、パリのドゥリュエ画廊で初めての個展。 | |
1911年(40歳) | 作家で批評家アンドレ・シュアレスに自ら書簡を送り親交を結ぶ。以後作家の没する1948年まで親密な交遊が続き、往復書簡集が残される。12月、ドゥリュエ画廊で2回目の個展。『ジル・ブラース』紙にルイ・ヴォークセルが賞賛の記事を書く。 | |
1912年(41歳) | ヴェルサイユ、オランジュリー街36番地に転居。6月、父アレクサンドル死去。父の死および葬儀を契機に版画集『ミセレーレ』の構想が芽生える。 | |
1913年(42歳) | ルオーの陶器に興味を抱いた画商ヴォラールが、今後の全作品を購入するよう申し出る。 | |
1914年(43歳) | 第一次世界大戦勃発。油彩画とともに版画制作に従事し、「戦争」と「ミセレーレ」と題する予定で二分冊版画集に取り組む。これは1927年に『ミセレーレ』となって完成をみる(刊行は1948年)。 | |
1916年(45歳) | 戦時下で子供たちの病気や老母をかかえて生活は困窮する。 | |
1917年(46歳) | 画商ヴォラールと専属契約を結ぶ。画商は770点の作品総額4万9150フランでルオーから買い取る。この頃から1927年まで、画商の要求をいれて『ユビュおやじの再生』を制作。ルオー自身の発案による版画集『ミセレーレ』、『悪の華』などの計画。11月、レオン・ブロワ死去。 | |
1918年(47歳) | 水彩やグアッシュを描かなくなり、油彩に専念する。キリスト教を主題とする絵が多く描かれ、特にキリストの受難が増え、色彩は豊かになる。 | |
1919年(48歳) | 10月、2年前に国家買い上げとなった油彩画《学者たちの間の幼きイエス》が、コルマール美術館に展示される。これが美術館に展示されたルオーの最初の作品。 | |
1920年(49歳) | この頃より30年にかけて公の場で作品を発表する機会が減少。サロンにも出品しない。ただ、長年の愛好家ジラルダン医師がパリに開設したラ・リコルヌ画廊で展覧会を開催。 | 《裸婦》 |
1921年(50歳) | ミシェル・ピュイがルオーに関する最初の研究書を執筆。 | |
1922年(51歳) | パリのバルバザンジュ画廊にて個展。制作中の版画集のタイトルを「ミセレーレ」に決定。ヘンリー・チャーチの小冊子『道化師たち』の表紙絵や挿絵を3点描く。 | 『道化師たち』 |
1924年(53歳) | 4月22日から5月2日まで、ドゥリュエ画廊で大回顧展が開催され、油彩画88点と陶器8点を出品。5月15日、ジャック・マリタンが『ラ・ルヴュ・ユニヴェルセル』誌上にルオー論を発表。母ルイーズ死去。母を失った悲しみは大きく、ひどく落胆する。 | |
1925年(54歳) | ヴォラールは、パリ7区マルティニャック街28番地の自身の邸宅にルオーのアトリエを設置。4月、あまり気が進まないまま、パリで開催された現代産業装飾芸術国際博覧会での美術展に『ユビュおやじの再生』から作品の一部を展示。レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ章を授与される。 | |
1926年(55歳) | 石版画による挿絵6点の入った『回想録』が刊行。『フュナンビュル』誌に表紙絵や挿絵、テキストを寄せる。 | 『回想録』、『フュナンビュル』 |
1927年(56歳) | 銅版画集『ミセレーレ』完成(刊行は1948年)。『悪の華』のための銅版画制作。 | 『ミセレーレ』 |
1929年(58歳) | 日本人コレクターの福島繁太郎とルオーとの最初の出会い。以後福島宅を訪れて制作。バレエ・リュスの演目「放蕩息子」(音楽はプロコフィエフ)のための舞台美術と衣装を担当し成功をおさめる。自作の詩に6点の石版画と50点のデッサンが入った『伝説的風景』を出版。年末、スイスにある福島の別荘に滞在。 | 《女曲馬師(人形の顔)》 |
1930年(59歳) | リュクサンブール美術館作品購入委員会が希望したルオー作品の購入を美術担当政務次官が拒否する。アンドレ・シュアレスがテキストを担当する『サーカス』と『受難』のための彩色銅版画を制作。ニューヨークのブルマー画廊、シカゴのアート・クラブ、ロンドンのセント・ジョージ画廊、ミュンヘンのノイマン画廊で巡回展。以後1930年代は、道化師、裁判官、聖書風景、キリスト像など比較的大型の油彩画を、輝く透明なマティエールで多数描いた実り多き時代となる。 | |
1931年(60歳) | 展覧会への出品が頻度を増す。マルセル・アルランの『ジルベールの手帖』のために挿絵を描く。 | 『ジルベールの手帖』 |
1932年(61歳) | 22点の腐食銅版画と104点の木口木版画の入った『ユビュおやじの再生』刊行。芸術家のパトロンであったマリー・キュトリの依頼でタピスリの下絵を描く。秋にブルターニュ地方のサン゠マロに滞在。 | 写真、 『ユビュおやじの再生』 |
1933年(62歳) | チェスター・デール夫人が《聖顔》をリュクサンブール美術館に寄贈。これは後にパリ国立近代美術館の最初のルオー作品コレクションとなる。ニューヨークのピエール・マティス画廊で展覧会。 | |
1936年(65歳) | 自身のテキストに17点の色刷り腐食銅版画と82点の木口木版画の入った『流れる星のサーカス』が刊行。 | 『流れる星のサーカス』 |
1937年(66歳) | 6月から10月、パリ市プチ・パレ美術館で回顧展開催、42点の油彩画を出品。リオネッロ・ヴェントゥーリは、ルオーに関する重要な研究書の執筆を開始(1940年刊行)。 | |
1938年(67歳) | ニューヨーク近代美術館で版画作品展。 | |
1939年(68歳) | シュアレスのテキストに17点の色刷り腐食銅版画と82点の木口木版画が入った『受難』が刊行。7月22日、アンブロワ-ズ・ヴォラールが交通事故死。ルオーは激しく動揺する。第二次世界大戦勃発。息子と二人の娘婿が召集される。サルト県ボーモン゠シュル゠サルトに疎開する。 | 『受難』 |
1940年(69歳) | 6月、ドイツ軍侵攻によりアルプ゠マルティム県ゴルフ゠ジュアンに避難。 | |
1941年(70歳) | 40年から41年にかけてアメリカ各地で巡回展。 | |
1943年(72歳) | ルオーの詩に15点の色刷り複製図版の入った『ディヴェルティスマン』刊行。未完成作819点の返還を求め、ヴォラールの相続人たちに対して訴訟を起こす。 | |
1944年(73歳) | 『ひとりごと』刊行。ボーモン゠シュル゠サルトに戻る。 | |
1945年(74歳) | ニューヨーク近代美術館で大回顧展、161点が出品される。オート゠サヴォワ県プラトー・ダッシーにあるノートルダム・ド・トゥト・グラース礼拝堂のためのステンド・グラス下絵5点を制作。 | |
1946年(75歳) | 4月、ロンドンのテート・ギャラリーでブラックとルオーの2人展開催。モーリス・モレル神父によって企画されたパリでの「宗教芸術のために」と題された展覧会に参加。 | |
1947年(76歳) | 3月19日、ヴォラールの相続人に対する訴訟に勝訴。その結果、未完成作品約800点が画家に返却されることが決定したが、うち119点は既に不明。ルオーの詩と12点の色刷り複製画が入った『ステラ・ヴェスペルティーナ』刊行。 | |
1948年(77歳) | 4月から6月にかけて、チューリッヒのクンスト・ハウスで大回顧展、263点を出品。スイス旅行、そして初めてイタリアを旅行する。ヴェネツィア・ビエンナーレに国がルオー作品38点を送る。秋、58点の腐食銅版画の入った『ミセレーレ』が刊行。11月5日、前年の勝訴によって返却された作品中、完成が困難に思われた315点を行政官の面前で自ら焼却する。パリのオデット・デ・ギャレ画廊で銅版画集『ミセレーレ』を初公開。アンドレ・シュアレス死去。 | 写真、 『ミセレーレ』 |
1949年(78歳) | リギュジェ修道院のアトリエで、エマーユ作品のための原型を作る。ベルギー、オランダに滞在する。 | |
1951年(80歳) | レジオン・ドヌール3等勲章(コマンドゥール)を授与される。6月6日、80歳の誕生日を記念し、フランス・カトリック・センター主催の「ルオー礼讃」の会がシャイヨー宮にて開催される。短編映画「ミセレーレ」がここで公開される。この頃より黄色味を帯びたキリスト教的風景画が現われ、平和で神秘的な情景が多数描かれるようになる。 | |
1952年(81歳) | ブリュッセル王立美術館とアムステルダム市立美術館が回顧展を開催。7月9日から10月26日まで、パリ国立近代美術館で大回顧展。完成したばかりの作品4点《秋の夜景》《幼子たちをわたしのもとに来させなさい》《夕暮れ》《キリスト教的夜景》を展示。 | 《秋の夜景》 |
1953年(82歳) | クリーヴランド美術館、ニューヨーク近代美術館、ロサンゼルス州立美術館、東京国立博物館、大阪市立美術館で回顧展。ローマ法皇ピウス12世よりグレゴリウス3等勲章(コマンドゥール)を授与される。 | |
1954年(83歳) | ミラノ市立近代美術館で回顧展。ローマの聖ルッカ国立アカデミーの通信会員となる。 | |
1955年(84歳) | イエルサレム国立美術館が展覧会を開催。 | |
1956年(85歳) | 教育功労勲章(パルム・ザカデミック)を授与される。タルン県アルビのロートレック美術館で展覧会。 | |
1957年(86歳) | 芸術文化勲章(デ・ザール・エ・デ・レットル)を授与される。 | |
1958年(86歳) | 2月13日、パリにて死去。17日、サン゠ジェルマン゠デ゠プレ教会でフランス政府による国葬。モレル神父の追悼の辞、さらに文部大臣ビリエール、画家代表アンドレ・ロートの弔辞。葬儀の際にモーツアルト「レクイエム」が流れる。 |
本年譜は、主に、高野禎子(編)「ルオー年表」『ジョルジュ・ルオー―未完の旅路』(日経BP企画、2002年)と、後藤新治(訳編)「ジョルジュ・ルオー年譜1871-1958」『ルオーコレクション名作選 新装版』(パナソニック汐留美術館、2019 年)より抜粋したうえで、加筆・編集した。