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山添信也 選手 引退インタビュー

2020年05月23日

本日5月23日は2019-20シーズンをもって引退した山添選手の誕生日です。
引退を決意した山添選手のインタビューを公開いたします。

画像:山添選手

『3年前ぐらいから徐々に引退を意識し始め、「今シーズンをやり抜く力があるか?」と自問自答していた』と話すのは2019-20シーズンをもって引退することを決意した山添信也選手(背番号3番・ミドルブロッカー)。「チームとして僕を必要としてくれるのならば、僕は是非やりたいという気持ちだった」といい、「自分から引退するとは言い出さなかった。おかげで10年間やれた。」とも話す山添選手に引退について話を聞きました。

引退を決意したタイミング、その理由は。

引退を決意したのは2019-20シーズンのVリーグが終わったぐらいです。けががあり、試合にも出場できない状態が続きました。「まだまだうまくなりたい」という気持ちはありましたが、体が付いてこない状態、全力でプレーするとどこかが痛くなるような状態。「そろそろ引退しようか」という決意をしました。

けがの箇所は。具体的に。

今シーズンに限っては「膝」です。どうしても良くならず、通院しても治らない。プレーすると痛くなるという状態が続きました。それが一番の原因になります。

決断に後悔や思い残したようなことは。

Vリーグが終了し、休みがありました。5月に開幕予定の黒鷲旗に向けて練習しようかというとき、プレーしてみると状態が良かったので、「あれ??これ治るんじゃないの?」と一瞬思ったりもしました。1年間治療を続けてきて、無理だったので。諦めてというか、自分の中で整理を付けていたので、そこまで引きずる気持ちはないです。

リーグ戦は3連覇を逃し準優勝、天皇杯、黒鷲旗がコロナの影響で中止、チームとしては悔しいシーズンとなった中での引退です。黒鷲旗でプレーを終えることができない寂しさはありますか。

もちろんあります。Vリーグでユニフォーム姿をファンの方々に見せることができなかった悔しさがありました。黒鷲旗ではユニフォームを着てプレーしたい気持ちもあった。その姿をファンの方々に見て欲しかったです。

パンサーズ入団から今日まで、どんな選手生活でしたか。振り返って下さい。

けがには悩まされました。入団当時も疲労骨折であったり、肩がもともと悪く、「インピンチ」というかががあった状態で入団しているので。スポーツにはけががつきものですが、僕の場合はけがをしやすい体だったと思います。けがとの向き合い方も勉強させてもらったし、トレーナーとも色々話ながら、トレーニングや治療で治してもらったり、何とか体をもたせながらVリーグで戦っていける体を作ってもらった状態でした。トレーナーには感謝していますし、一緒に作り上げた体で戦うことで恩返しもしたかった。何とか自分のパフォーマンスを上げていくために、けがと向き合ってきた選手生活だったと思います。

入団以降のけがについて、晩年はけがと付き合いながらのシーズンが続いていた。難しさや、得たものはありますか。

全力でプレーするとひずみが出るというか、なかなかセーブもできないタイプ、やるとなれば全力で突き進むタイプなので。あとあとひずみが出てくる。それを繰り返しながら成長してきた部分もありますが、何分うまく行かなかったです。

競技人生を通じで学んだことは。

目標に向かって何をするか。今何をやったらいいのかを、自分が今やるべきことを見据えて、段階を踏んでいく、調整するスキルは付いたかと思います。

今、思い返して最も印象に残っているシーン、シーズンは。

僕の中では2018-19シーズンのファイナル6、堺ブレイザーズ戦でVOM(V・ファイナルステージの各試合で勝利に貢献した選手に送る個人賞「V.Leaguer of The Match」)を取ったことが一番印象的でした。

応援してくれたファンの存在は。

いつも手紙をもらったり、声をかけてもらったり。試合に出場できないときでも勇気付けられました。「早くユニフォームの姿が見たい」だったり。奮い立たせて「頑張ろう!」という気持ちにいつもなれました。

支えてくれた家族への思いは。

家族には毎シーズン遠征でとっても迷惑かけているので(笑)。「子どもが小さい時に風呂を1人で入れるのは大変だ」と奥さんから聞いていたので、負担をかけてしまったと思っています。いつも奥さんに「また今週も遠征に行くの?」とも言われていました。当時、子どもに手がかかる時だったので心の叫びだったと思います。家族には支えてくれて本当に感謝しています。

同じポジション(ミドルブロッカー)の先輩、白澤健児選手より早い引退です。山内晶大選手、兒玉康成選手、小宮雄一郎選手など後輩たちに託すことは。

後輩たちにはそれぞれが目標に向かって一生懸命やってくれたら僕は何も言うことは無いです。白澤さんに関しては、「絶対僕のほうが(引退は)後やな」と思っていた。「まだ辞めへんのか?まだやるか?」という気持ちです(笑)。白澤さんには最後まで、悔いが残らないようにやってもらいたいという気持ちです。50歳を超えても現役を続けているサッカー選手のキング・カズ(三浦和良)さんぐらい続けてくれればと思います。

引退後の進路、ビジョンは。

会社(パナソニック)で一から指導してもらって、早く一人前に仕事ができるようになりたいです。「スキルアップして行くしかないな」と思っています。しっかり突き進んで、がむしゃらにやっていきたいと思っています。

山添さんにとってバレーボール、パンサーズとは。

難しい質問ですね・・・。小さい頃から父親と一緒にバレーボールをしていました。父親がバレーボールをやっていたのを見て、僕のバレーボール人生が始まりました。一人で練習したり、学校で仲間と練習したり、僕の中ではバレーボールというのは「人との繋がり」ですね。もともと見知りで、バレーボールがなければできない仲間や、友達が出来ました。バレーボールを通じてパンサーズにも入団できました。バレーボールは「人生の一部」ですね。そしてパンサーズは「家族のような存在」です。

ファンに向けてのメッセージを。

パンサーズで10年間バレーボールをできるとは思っていなかった。ここまでやれたのもファンの皆さんが支えてくれたおかげです。ただ、ファンの方々に最後ユニフォーム姿を見せることができないのは少し寂しく、残念な気持ちですが、感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。

画像:山添信也
山添信也(やまぞえしんや)
1987年生まれ。長崎県出身。大阪産業大学卒業後、パナソニックパンサーズに加入。2019-20シーズンを最後に現役引退。

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