Panasonic Sports

ピックアップフェイス

山添信也

無駄なく踏み切り、ハイスピードで繰り出す速攻が勝機を呼び込む。職人かたぎの緻密さで、周りの状況を的確に把握する観察力が山添ならではのプレーを生み出す。
ブロック、クイック、レシーブにとミドルの役目を果たし続けて「再び3冠の舞台に立つ」とこぶしを握り締め、自身を鼓舞する。

のびのびと育った少年時代

美しい海に囲まれた長崎県の五島列島で、山添は生まれ育つ。両親、そして姉1人、弟2人の家族とともに過ごした島で、海へ山へと駆け巡りへとへとになるまで遊んだ毎日。時には配送業を営む父に連れられて島じゅうを行き来し、開放的で穏やかな幼少時代を過ごした。

周りにあるもの全てが遊び相手で、1人の時間はおもちゃや電化製品を"分解"していた。モノが壊れたとき、ラジオが動かなくなったとき、「なぜ動かないのか」「どうしたら直るのか」を確かめずにはいられなかった。「ネジを外して基盤やモーターを開け、構造を見るのが楽しくて。切れた線をつなげたり、ハンダ付けもどきをしてみたり」と、「エンジニア」を夢見ていた頃を懐かしむ。


バレーボールは中学校のクラブ活動として始めたが、部員は少なくバレー経験のある指導者も居ない。試合ではなかなか勝てずにいたものの、入学当時170cmだった山添の身長はぐんぐんと伸び、ジャンプ力を生かしたスパイクが楽しくなった。和気あいあいとしたチームで特段の競争心も芽生えず、中学最後の試合で負けても悔しさも感じることはなかった。「そんな僕でも、大村工業高校が声をかけてくれたので」と、恩師となる伊藤監督との出会いを控えめに話し始めた。

監督が五島列島に赴任中、山添の父と一緒にバレーボールをしていた縁が「来てもいいぞ」の一言につながった。大村工業は県内屈指の強豪校。テレビでは同郷から進学した先輩が春高で活躍していた。「憧れるけど、夢の世界だな。万年補欠でもいい」と当時の心境を吐露する。プレーに自信は持てずとも、もう一つの夢が山添の背中を押した。「電気科で勉強ができる」と、慣れ親しんだ島を離れる気持ちを固めた。

ものごとを分解し、自ら回路を見いだす

バレー人生の中で、山添は度々けがに苦しんだ。中でも高校入学前に初めてチーム練習に参加したときのことは忘れられない。ウオーミングアップが終わり、ブロック練習が始まるとすぐに着地に失敗、足首の骨にひびが入って全治3カ月を余儀なくされる。「高校に入学もしていないのにギプスをして島に帰ったので、家族もあきれていました」と、入学式も松葉づえで出席した記憶を思い起こす。山添は「今でも話のネタにされて、からかわれます」とはにかんだ。

大村工業の練習は、内容も質も別次元。しかも初年度は、長崎で開催される夏の総体に向け、チームは並々ならぬ士気に満ちていた。一切の妥協を許さない監督の指導に食らい付き成長していくメンバーを眺め、同級生がベンチ入りする姿に焦りが募った。その総体で大村工業は初優勝を果たし、スタンドで声をからした山添はチームと監督の本気に心を打たれた。「いつか、自分もこの気持ちを味わいたい。監督を信じて成長するんだ」と、強く熱い思いを抱いた瞬間をよみがえらせた。

山添は、必死で皆の後を追いかけた。「同じ練習をしても差は縮まらない。だから、うまい人の動きを"分解"して、自分自身の動きに組み込んで試してみた」と、観察眼を培った下積み時代を振り返る。スパイクでは、一連の動作を細分化。助走、踏み切りの動作、腕の振り、タイミングや角度など、分解して見つけた一つひとつの動作を模倣しては自分のプレーに写しだした。山添のスピードが生きる速攻は、こうして編み出されてきたものに違いない。

「成長したい」ともがいた高校生活

勢いづいた山添は、2年生の中ごろから試合に起用されるようになる。「試合に出る喜びは格別。だけど自分が足を引っ張るのでは、と気になって」と戸惑う自分がいた。その理由をブロックへの苦手意識が強かったからだと告白する。「跳ぶタイミングや位置、サイドとの間合いがつかみ切れず、経験不足を痛感するばかり。そしてボールをはじいては指のけがを繰り返して」と痛々しい思い出ばかりを振り返る。

大村工業は"超高校生級"と言われるブロックの組織力が光るチームだ。その中で、劣等感が大きくのしかかる山添に監督はこう声をかけ続けていた。「殻を破れ」、と。監督は一人ひとりの性格や育ってきた環境を踏まえながら生徒の本質に問いかけ、自ら行動させることを信条とした。「自分を閉じ込めている"殻"とは何なのかを考えても、よく分からなくて。言葉数が少なく感情を表に出せない自分を変えなきゃとは分かるけれど、どう表現すればよいか……」と、試行錯誤した日々を振り返る。

バレーに向かう強い気持ちや、仲間を大切にしている思いを前面に出そうと意識し続けた。とぼけてみんなを笑わせてみたりもした。「だからといって監督に褒められることもなく、何が正しいのか分からなくて。けど、ブロックが決まったとき、試合で勝てるようになったときに、自分が肯定されたような気がして」とほほ笑んだ。3年の九州大会では速攻がさく裂し、優勝に貢献した。山添はやっと感情を爆発させて喜んだ。

高校では技術訓練など興味ある学業も充実、電気工事士第一種、第二種の資格も取得し、今まで迷惑をかけてきた家族のためにも卒業したら働くべきと、エンジニアへの道を見据えていた。それでも、「高校で培ったバレー選手としての基盤が、どこまで通用するか試したい気持ちもあって」と、揺れていた気持ちは大阪産業大学からの誘いによって固まった。

殻を破り、献身的にチームを支える

全国トップレベルでしのぎを削った経験が上積みとなり、大学での山添は自然と周りをリードする立場になる。トレーニングメニューにもさまざまなアイディアが生まれ、チームをいかに運営するかを考えるようになった。「伊藤先生の教えを礎として、新たな環境で『殻を破る』ということができたのかもしれません」と晴れやかに語る。

4回生のときにはキャプテンを任され、総勢40人の先頭に立った。試合の結果から敗因を分析し、強化すべきポイントを明確にしては練習メニューを組み立てた。「みんなに支えられて、なんとかやり遂げることができたんです」と、チームメイトへの感謝を述べる。その統率力は西日本インカレ優勝という結果で示されたが、「最優秀選手賞は、キャプテンだったからもらえただけ」と謙虚に語る姿が、なんとも山添らしい。

3回生でパナソニックから声がかかったときは驚きもありつつ、「バレーを続けられるなら」と即決した。チームは温かく、特に同じミドルの先輩らは新人が打ち解けやすいようにと気配りをしてくれた。先輩たちの振る舞いで心を開いたように、山添もまた「後輩へとその空気感をつないでいきたい」という。

攻・守の両輪を担うミドルの役割は、常に献身的だ。山添はミドルプレーヤーとして、速攻とレシーブ力を生かしたオフェンスを持ち味に「ここの1点」を生み出し、勝利へのリズムを創る。それでも「現状に甘んじず、世界中のプレーを見て研究し、自分の姿を正しく見つめられる選手でありたい」と、信念と熱意あふれる表情で語る。近頃はトレーニングメニューの改善で、疲労がたまりやすかった肩や脚の筋力強化にも手応えを感じているという。現在の目標は、「穴のないプレーでチームに貢献する」こと。「全日本メンバーが不在の中で味わった2011/12シーズンの3冠の喜びを、再びコートの中心で味わいたい」と意気込んだ。

(取材日:2014年3月5日)

さらなる高みを目指し、
喜びを爆発させる瞬間をイメージする。
あくなき探究心が、前に進む原動力になる。
夢と希望を、実現するために――。

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