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ピックアップフェイス

清水 邦広

清水が豪快にスパイクをたたきつけ、拳を握ってほえる。日本を代表するサウスポーエース。オリンピック、ワールドカップ、数々の世界大会で、国のプライドをかけて闘い抜いてきた男。過酷さを乗り越え心身ともに鍛え上げ、今、世界に肉薄せんとする。屈強な体にみなぎるのは、誰より熱い闘志――。

見込まれて、バレー人の基礎を学ぶ

「すごい選手にしてやる」。中学校で、バレー部の先生に手を引かれた。清水はその言葉を思い出し、「すぐ調子にのっちゃうんですよね」と笑った。生まれ育ちは福井県。もともとは団体行動が苦手で、シャイな性格だという。「幼稚園や小学校の行事や野外活動がいやで、案内状を母に見せずに捨ててしまったり。クラスメートと仲良くなるのにも時間がかかるタイプ」と教えてくれた。
卓球、ソフトボール、スキーと、スポーツ少年でもあった清水。母の"ママさんバレー"の練習に付き合っていたことをきっかけに、4年生からバレーボールを始めた。中学入学当初は「野球もいいな」と心が揺れていたが、バレー部だった4つ上の兄を知る先生に、呼びこまれた。「バレーをしたこと、後悔させないから」と。「その言葉がすごくうれしくて」。ここで、清水にバレーボールの基礎がたたき込まれることになった。


清水が通っていた美山中学は、全国で上位に名を連ねる強豪校だった。練習のハードさも、並ではない。体力やスキルの向上はもちろん、闘いに勝つための根性、肝っ玉を養う特訓のようでもあった。「僕は誰よりも叱られました。例えば1年生の時の声出し。女子バレー部や他の部が体育館にいる中で、2階のギャラリースペースからコートに向かって応援をするんです。恥ずかしいし、なんでこんなことをしないといけないんだと思っていて……。その声出しにOKがもらえないと降りられない、だいたい僕が最後まで残されました」と、殻を破り切れない辛さを思い出す。部員は勉強との両立も課された。「毎週月曜の小テストで80点以下だったら、再テストに合格するまで部活動禁止。落ちた時、監督に報告しにいくのが、もう怖くて……」。その感覚をよみがえらせ、体を震わせてみせる。日曜の夜は、決まってその小テストのための勉強をした。「キツさに脱落する人もけっこういましたが、2年生になるとゲーム練習に主体的に参加できるし、レギュラーになれたら、再テストで練習を棒にふるなんてできなくて」。いくら怒られても、必死に食らいつけばバレーのことも社会のことも、存分にそこで学ぶことができた。

清水には、当時から絶対的な憧れがいた。ジルソン・ベルナルド。サントリーサンバーズをVリーグ5連覇に導いたレジェンドだ(現・サントリーサンバーズ監督)。「中学生の頃、母がVリーグの観戦に連れて行ってくれました。彼のスパイクを生で見た時、うわあ! すげえ! って。その威力、高さ、速さ、全てがずばぬけていました。かっこいい。こんなふうになりたい! って」。そう当時の感動をよみがえらせて、ひとつの記憶とリンクさせた。「中学の監督に言われたことを思い出しました。すごいって言われるぐらいじゃだめだ。『わあ…! すごい』って言われる選手になれって。思わず『わあ…!』と声を上げる圧倒的な存在、僕にとってまさにジルソンさんです」と、少年のような表情を浮かべた。

3年生が引退してすぐに、清水はレギュラー、エースに昇格。小学生の時はセッターだったが、サウスポーを生かすスパイカー転向で急成長した。全国大会ベスト8になった先輩に続けと意気込んだが、最初は県大会でも勝ち切れなかった。得点の稼ぎ頭だった清水は、打てばチームが勝つ、打てなければ負ける、と自分の働きと直結する結果に、人一倍の責任を感じた。最上級生になっても、北信越大会止まり。「全国の優勝争いをしたい」という夢は、はかなく散った。

名スパイカー誕生、ライバルと切磋琢磨して

中学で味わった悔しさから、清水は「高校でさらなる高みを」と息巻いた。元全日本代表の荻野正二さんの出身校でもある、県内随一の名門福井工業大学附属 福井高等学校へ進んだ。堀監督(当時)の教えは、清水のモチベーションをさらに高めるものだった。「自分たちで考えてやれ!」。練習メニューは生徒同士で話し合って組み立てていく。中学までの強制されたバレーとは違う。何をしたらうまくなるのか、自分で考えなければならない。そのスタイルが自分に合っていたと言う。清水は1年生でレギュラーをつかみ、試合に出て先輩にも発言をして、積極的に取り組んだ。試合を組み立てて挑戦していくことが「楽しくて仕方がなかった」と表現する。

練習では、スパイクの威力を高めることに集中した。「強いボールを打ちたい」の一心で、スパイクを下に落とし、跳ね返りが天井に当たるまでを目標にした。課題はフォーム。ジルソン選手と自分との違いを探し、力がボールに伝わる体の動きを模索した。「いいなと思う動きをひたすら反復して、感覚を体に落とし込むんです。あとジルソンさんの体格にも注目し、練習のインターバルは、柔道部に交じってウエートトレーニングをしました」。当時の食事はというと、回転ずしで100貫をペロリ、納豆は1度に6パックをかき込む。夕飯の後すぐにおなかが減ってパンを食べ、寝る前にはラーメンを……。「半端じゃなかったです。母は苦労したと思いますよ(笑)」と快活に笑う。まさにエネルギーの塊、体重は20キロ近くアップ。パワーがのってくる時期、その変化を楽しんでいたようだ。

福澤選手

清水は、ライバル校のエースに闘志を燃やした。洛南高校の福澤達哉――。練習試合で何度も顔を合わせる相手だ。対戦する度に力量を推し量り、「負けていると感じれば、追い越すことに必死になって。しかし次の対戦時には福澤もまた強くなっている。くそ~っと、また追いかける。向こうは意識していなかったかもしれませんが(笑)」。練習試合では五分五分だったが、公式試合では洛南に勝った記憶がないという。「試合で勝てないのには、やはりどこかに差があったのでしょう。3年生の時の3大大会(国体、インターハイ、春高バレー)は、全て洛南に当たってやられました」。

さらに最後のインターハイ、痛烈な思い出を教えてくれた。「8強で洛南との対戦。試合が8月11日、僕の誕生日だったんです。チームメイトと『勝って、これを誕生日プレゼントにしよう』と約束して……」。フルセットにもつれこんだ接戦。20点を越えたところで、2点リードしていた福井高に勝算がみえた。「よし、やっと勝てる」と、心の中で拳を握ったという。しかし、そこからまさかの逆転負け。「ワンタッチをとったかと思ったプレーがありました。しかしそれが判定されず、気持ちを引きずり……切り替えられなかった」と振り返る。試合終了のホイッスルが鳴ると、大の字で寝転がり、天を仰いだ。「起き上がれませんでした。動けなかったんです。審判に起こされました」と苦笑する。「若さだった。次のプレーに集中していれば、違う展開になったのに」とひとしきり悔しがってから、「いい経験だった」と添えた。

若くして五輪へ、その重みを背負う

大学界から注目されていた清水は、伝統ある東海大へ。そこには、大学随一の強豪にふさわしく、身体能力、パワー、経験値いずれもハイレベルの猛者がひしめいていた。高校でスターとなった清水も、また一から出直し。それどころか、「ここでもみ消されて終わるかも」と自信を喪失するほど打ちのめされたという。1年生の時、全日本インカレで、人生初の優勝争いのコートに立った清水。そこで空回りし、打つボールが全てアウトに。「自分がゲームをつぶしてしまった。そのまま引退する4年生に申し訳なくて。その翌週、東西対抗戦という大学のオールスター戦があり……」と続ける。役回りで清水ら東海大の1年生がボールリトリバーを務めた。そのコートでは中央大に進んだ福澤がプレーしていた。「高校でライバルとされていた2人が、片やオールスターのコートに立ち、自分は裏方として福澤にボールを渡している。こんなに差が開いたのか」、衝撃が走った。「自分もプレーヤーとしてこのコートに立っていなきゃいけなかったのに――」。

「今の練習じゃだめだ」、清水はがむしゃらになった。スパイクの弱点を洗い出し、先輩にワンマン練習を請うた。大学のスピード感に対応するため、練習後は坂道ランで足腰を鍛え瞬発力を養った。「中途半端じゃ通用しない。スパイクで一番になろう」。当時の先輩らは、清水の熱に応え、焦りを力に変えて、チームの絶対的エースへと羽ばたかせてくれたという。「強いチームは皆の意識が高く、お互いの信頼感がチームとしての自信になっている」と、清水はこれまでの経験を語る。次年度、東海大は「どの大学が相手でも負ける気がしない」とまで結束し、主要大会のタイトルをほしいままにした。

翌年6月末、清水は全日本の試合に招集された。ワールドリーグの東京大会に出場するためだった。「木曜に聞かされて、金曜の授業が終わった後に合流し、すぐ土曜、日曜の試合に出ました。相手はフランスで、1勝1敗。緊張する間もなくて、終わってから "全日本の試合に出られたんだ"と実感した」と振り返る。ひそかに、世界へと打ち込んだスパイクに手応えも感じていた。以降、ワールドカップやオリンピック予選でも勝利に貢献した清水。2008年の北京オリンピックは、福澤とともに最年少で出場。勝利こそなかったものの、16年ぶりの出場で日本男子バレー界の存在感をアピールした。そこから"ジャパン"で時間を多く過ごし、より厳しい訓練を受けて、スパイカーとして大きくステップアップした。「荻野さんや山本(隆弘)さんらのプレーの奥深さ、そのプレーを生み出す練習のストイックさなど、あらためて次元の高さを知りました。また、大舞台で日の丸をつけて闘ったことで、応援してくださる方がすごく増えたと実感しました。みんなの期待を背負っている。だから、僕ももう一つ上のステージに行かなければと」、当時の決意を蘇らせる。

パナソニックを、全日本をリードして頂点を目指す

OB 山本(隆弘)氏

大学卒業後の進路は、パナソニックを選んだ。全日本の同じポジションでアドバイスをしてくれた山本(隆弘)の存在が大きかったという。清水は、1年目から"怪物"のごとく暴れて賞を総なめにし、パナソニックはVリーグ史上初の三冠を達成した。名実ともに日本トップレベルにのし上がった清水。まさに得点の稼ぎ頭、オポジットとして存在感を強める中で、先輩プレーヤーとの経験の差も殊勝に受け止めていた。「この先、一本調子のスパイクでは通用しない。ミスなく確実に決めるには、ブロックへの対応力など、いくつもの武器を持っておかなければ。そして、サーブ、ブロック、レシーブ、全てがトップレベルでないと」。パナソニックはそれぞれが信頼し合ってプレーできていると感じた。すると思い切りのよいプレーができたり、冷静になれたり、一人ひとりが自信を持って闘える。勢いづいたパナソニックは、2012年に2度目の三冠を達成した。


清水は、ロンドンオリンピックに向けて勇み立っていた。しかし足首のけがで最終予選の2カ月前に手術を余儀なくされる。何とか試合には出場するも、エースとしての機能が果たせず、ジャパンはオリンピック出場権を逃した。一言で、「キツかった」と、当時の胸の内を明かす。周りに「吹っ切れた」と言ってみるものの、「今思えば相当引きずっていた」と。プレーをすれば「あの時こうしておきゃよかった」との思いがよみがえる。自分のふがいなさに、ひたすらもがき苦しんだ。そんな中、左手甲の骨折で戦線を離脱した時に、気持ちの整理をつけた。ひと時プレーから離れれば、応援してくれるファン、家族のありがたみが込み上げてくる。みんなが支えてくれてきた分、自分は恩返しをしなくてよいのか。清水は、もう一度素直に自分の声を聞いた。「もう一度オリンピックに行く。今度こそ結果を残すんだ」と。全てを受け入れ、覚悟を決めた。


「感謝」清水 邦広

2015年夏のワールドカップで、清水は八面六臂の活躍を見せた。要所でのサービスエース、技ありのフェイントでチームに勝機を引き寄せ、積極的にブロックアウトをとり相手を疲弊させていた。「考えながら、打てていた」。経験に裏打ちされた鮮烈なプレーで魅せ、若手らの伸びやかなプレーを引き出して、強豪との大激戦を繰り広げた。パナソニックのチームメイト、永野と深津の存在が何よりも心強かったという。「リベロとセッター、あの2人が陰の立役者です。自分の仕事をきっちりとこなしながら、若手を支えて守備範囲を広げたり攻撃にも加わり、普通では難しいことをやってのけた。だから大崩れしなかったし、スパイカーの攻撃がさえたんですよ」と誇らしげだ。パナソニック、全日本チームへの思いを話す姿には、熱さと穏やかさが入り交じっている。「どんな強豪も、渡り合う自信なら俺が持っている。ついてこい――!」。

永遠のライバル、福澤は今ブラジルに渡り、スーパーリーグの「マリンガ」で研鑚を積んでいる。「また強くなったアイツと、早く一緒にプレーがしたい」と笑う。「それまで僕もVリーグで精いっぱいチームのために頑張ります。こうなりたい! と強く思って行動すれば、未来はちゃんと変わっていく。僕も、まだまだ強くなってみせますよ」と、たくましい太ももを強くたたいた。


(取材日:2015年10月23日)

力の限り、コートで暴れるサウスポー。
世界で闘ってきた技が、気迫が、相手の脅威になる。
「感謝する、全ての人に」――
これからは、一打に特別な思いをのせて闘う。

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