永野の声が響く。「よし」「いくぞ」。
その言葉を合図に、ゲームが展開していく。縦横無尽にコートを駆けてはボールに食らいつき、どんな劣勢からでも「逆転するぞ」とチームを鼓舞する。
粘ってつなぐ守りから、攻撃を仕掛けるコンビバレーを完成させるため、コートを統率し続けていく。永野がいれば負けることは、ない――。
輪の中心となり、バレーを楽しむ
永野は、小学校に入学する前から2人の姉がバレーボールの練習をする横でボールを触ってきた。小学2年生の時、監督が男子チームを新たにつくってくれたことが、永野のバレー人生の始まりだ。ドッヂボールやサッカーと同じようにメンバーがそろうと「やろうぜ!」と声を掛け、仲間とともに好奇心を育んだ。週5日の練習はただただ楽しく、チームキャプテンになった6年生の県大会ではベスト8に。「ゲームで勝てるようになったことがうれしかった」と幼少時代を振り返る。
地元の日宇中学校は、公立ながら長崎県ではトップレベル。迷いなく進学し、アタッカーとして活躍した。密度の濃い練習の中で、技術や体力が自分のものとなり、チームがレベルアップしていく充実感を味わった。永野はここでもキャプテンを務め、中学最後の県大会に臨んだ。目標としてきた全国中学生バレーボール大会が幸運にも地元・長崎県で開催される年で、開催県枠として県上位2校が出場できる絶好機。しかし、全国大会へは一歩届かず3位に終わる。「中学生活が終わったな」と悔しさをかみしめた。
そんな永野にビッグチャンスが訪れた。JOC(ジュニアオリンピックカップ全国都道府県対抗中学バレーボール大会:当時アクエリアスカップ)の選抜メンバー入りを告げられたのだ。わけも分からないまま、召集される週末の練習に、そして夏休み期間中もほぼ毎日のように練習に参加した。「それが、僕にとって人生の転機になった」と、記憶を鮮明によみがえらせた。
JOC選抜、バレーへの価値観が変わる
選抜チームの指揮を執ったのは、長崎県大会2位で全国大会に出場した郡中学校の柳谷監督だった。ライバル校の指導は強烈で、「特訓」そのもの。「後にも先にも味わったことがないくらいきつくて……。ミスは許されず、保護者も見るに堪えかねていたようで」と、その過酷な練習を表現した。選抜メンバー入りした喜びなど、味わう余裕はない。脱落者が出る中、サブメンバーの永野は「逃げたら負けだ。チャンスは自らつかむんだ」と踏ん張った。
練習試合で正セッターが故障した時、「俺がセッターをやる」と名乗りを上げた。「監督は、好きにやれと。相手チームは並んで待っているし、取りあえず誰かがと反射的に前に出てしまったんですね。試合のスコアも覚えていないくらい必死で」と初めてのセッター体験を語った。そこからは、チームの司令塔として容赦ない指導を受けた。「監督には、セッターになったばかりという妥協はなかったようです。自分自身、甘えが芽生える余裕もなくて」と語る。永野は苦しみを、自分を信じる力に変えていったのだろう。
「もし、あの練習の途中で親が止めに入っていたら、今の僕はありません。乗り越えられると信じて、毎日練習に送り出してくれていたのでしょう。ありがたかったですね」と両親への思いを口にした。「おやじは試合を見に来るとアドバイスをしてくれた。けど、腹が立って、けんかになって(笑)。母は大変だったと思いますよ。限界まで疲れ果てて練習から帰ってくる息子に、それ以上に頑張ってとも言えないし。帰り道にただ一言、『何か食べて帰るね?』と。そんな会話を思い出します」と柔和な表情を浮かべた。
JOCの結果は3位。優勝するぞと、厳しい練習にも耐え抜き自信を深めてきたからこそ、悔やみ切れない思いが残った。試合後の夕食の席。チーム全員の前で監督に言われた言葉が、永野の胸に突き刺さる。「俺が一番厳しくしたのは永野だ。永野だったから全国3位になれたのかもしれないし、永野じゃなかったらもっと上に行けたかもしれない」。でも、よくやったと言ってくれた気がした。監督が自分に向けてくれていた期待と愛情の大きさを知り、唇をかんだ。「自分もこんな大人になりたい」と、万感胸に迫る思いで帰路につく。バレーボールプレーヤーとして、ひとりの人間として、大きな指標を得た中学生活だった。
リベロのやりがいを知る
佐世保南高校では再びアタッカーとなるが、国体選抜入りを果たした永野はリベロに起用される。「レシーブは好きだったんです。身長が伸びず、ひざに痛みもあったので、守備をやってみよう」と考えた。しかし、試合に勝ってもなんだか釈然としない。「攻撃はできないし、貢献度が数字に表れることもない。正確に返球するのは当たり前で、ミスをすれば目立つし。周りからしっかりしろと言われて……」。もやもやとした気持ちを抱え込んでしまった。
国体は決勝まで進んでの惜敗。肩にも痛みを抱え、不満のやり場もなかったからか、負けた瞬間、「バレーは終わりだな」と考えてしまった。「卒業したら料理人になるとか言っていましたよ。職人ってかっこいいじゃないですか。先生に一蹴されましたけど」と当時の複雑な心境を思い出して、永野は大きく笑った。
高校の先生に薦められた筑波大学で、リベロとしての自覚を培った。ポジションの在り方を模索する永野は、4回生の先輩の姿を追った。東レアローズの勝野裕士選手(2012年引退)だ。卒業後も試合を見に来ては声を掛けてくれた。「もっと声を出せ、走れ! お前がチームのムードをつくるんだ」と。ネットの上からの攻撃はできなくても、周りを動かして得点に貢献していくのがリベロだと教えてくれた。
永野がコートの中で声を掛ける。反応を見て、「こいつ元気ないな」「気持ちが乗ってきたな」と、個々人の状況が見て取れるようになった。チームが盛り立てば、「今の一声で点が取れたかな」と感じることも増えてきた。見いだした自分自身の役割は、チームに勢いを与え、スパイカーが気持ちよくボールを打ち放っていくということ。泥臭く、献身的なプレーに徹した。
リベロだから見えてくることがある。「正しいこと、間違っていること、感じたことは日ごろからきちんと発言し、コミュニケーションを取っていくのが、僕流のチームワーク構築法です」と永野は言う。筑波大では、リーグ戦、全日本インカレ優勝をはじめ、チーム、個人共に数々の好成績を残した。「冷静に周りが見渡せるようになった分、対戦相手の癖も分かるようになりました。ブロックやレシーブでの駆け引きが、データとぴたりと一致すると快感で」と、意義深い大学での4年間を振り返った。
信念を持ってチームメイトとぶつかる
その姿を見ていた南部監督から、パンサーズへの誘いを受けた。「リベロとしてさらなるステップを踏めること、監督がプレースタイルを含めた人間性を認めてくれていたこと」が入団の決め手となった。内定選手(大学卒業前にVリーグに選手登録を完了)としてチームの一員となった時も、信念を貫き感じたことを率直に発言した。
永野の目には、パンサーズは高いプライドをプレーに生かすことのできる個の強さを備えた選手の集団と映った。一人ひとりのプレーに圧倒されながらも、もっとチームとしての団結力が必要だとも感じた。「生意気だったと思いますけどね」と、いたずらっ子そのものの表情で1年目の出来事を振り返った。永野の実直さにチームメイトは胸襟を開き、特にエースとして活躍していた山本隆弘(2013年引退)が真摯に耳を傾けてくれたことで、チーム内の信頼を獲得していった。
2年目から気持ちの切り替えができるようになり、結果をコンスタントに出せるようになった。「1年目はミスを重く受け止め、背負ってしまって。でも、逃げてのミスより、攻めてのミスがいい」と割り切ることにして、永野は全日本に召集されるようになった。日本の守護神としてその名前が世界にも知れ渡るようにもなった。今シーズン、パンサーズのキャプテンに指名され「チームを引っ張るという意識はありますが、まとめようとは思わない。試合になればいつもの僕でいるだけです。声を出し、体を張って守り、攻撃のリズムをつくる。後輩たちにも伸び伸びとプレーしてもらって、勝てる空気を作り出しますよ」と力を込めた。
全日本選手として世界の壁と格闘している今、世界との実力差を謙虚に受け止め、永野は2年後のリオデジャネイロ、そして2020年の東京オリンピックを視野に経験を重ね続ける。そして、その先の未来を見据えた時、頭に浮かぶのは恩師の姿。「高校の教員免許も取得しました。いつかは、子どもたちや企業のバレー指導に携わりたい」と目を輝かせる。日々感じることをチームメイトにぶつけ、周りの心模様を感じ取りながらチームをリードしていく。そうした厳しくも懐の深い指導を受け、頼もしいバレーボーラーが誕生する日を楽しみにしたい。
鉄壁の守り、永野が上げるレシーブは、攻撃ののろし。
永野の声に、プレーに呼応して、チームは攻撃のリズムをつかむ。
そして仲間の会心の一撃に、キャプテン・永野はひときわ大きな声を上げる。