Panasonic Sports

ピックアップフェイス

合田 心平

ときには局面を打開するセッター、ときにはワンポイントサーバー。コートに立つ時間が短くても集中力を一気に開放し、存在感を放つのが合田心平の真骨頂だ。チームが求める働きに謙虚に応え、最後まで泥臭く諦めない。入部2年目のシーズンを迎え、自身に課した使命を果たすべくどんなプレーを見せるのか。

夢は全国大会、10歳で単身バレー修行

故郷、広島県神石郡を一人旅立ったのは、10歳の春だった。「バレーボールをもっとうまくなって全国大会で活躍したい」小さな胸に固い覚悟を宿して。父親が監督を務める地元バレーボールチームに小学1年生で入部。厳しい英才教育を受けながら、3歳上の兄と一緒に毎日ボールを追いかけた。小学5年生のとき、転機が訪れた。部員不足のためチームが解散してしまう。既にセッターのポジションに夢中になっていた合田は、何とかしてプレーがしたいと父親に直訴。広島市内にある県内有数チームの監督に入部を掛け合ってくれた。親元を一人離れ、見知らぬ都会で下宿生活をしなければならない。「それでも行くか」と問われ、「行く!」と即答。その瞬間から約10年にわたる、たった一人の武者修行が始まった。


バレーボールへの純粋な思いと生来のやんちゃな性格で選んだ道。とはいえ、まだ小学生。「最初の3カ月は寂しくて、夜になると布団をかぶって泣きました」。不安をはねのけ、支えとしたのは「全国大会出場」の夢。それだけに県大会を勝ち抜き、憧れのひのき舞台でプレーをできた喜びと自信は合田の原点だ。「この経験がなければ今の自分はない」、そう思えるほど深く記憶に刻み込まれた。

名門、崇徳高校で心と技を鍛えぬく

当初は小学校卒業まで1年間だけの「バレー留学」だったが、単身で東広島市の中学校へ。県内有数のバレーボール指導者に教えを請うため、3年間下宿生活を送る。実力のある選手が集まる中、1年生から正セッターをつかみ取り、全国大会に出場。実績を買われ、2008年、バレーボール界きっての名門、崇徳高校に入学する。同校は、伝説のセッター猫田勝敏さんをはじめ、世界で輝かしい実績を残した名選手を輩出。1975年の春高バレー、インターハイ、国体の三冠達成に始まり、多数の優勝実績を誇る。その強さの所以は脈々と受け継がれた基礎練習にあった。合田らを率いる監督が、テーマに掲げたのも「当たり前のことを当たり前にやる」。パスはその象徴だった。「うわさ以上の練習の質と量に最初は圧倒されましたが、死に物狂いで食らいつきました。1番苦しかったのはパスの全体練習。二人が対になって1時間落とさずに続けるのですが、もし一組でも途中で落としたら全員でまた最初からやり直し。パス練習で手首が赤く腫れあがり腱鞘炎になったのは初めて。おかげでセッターに欠かせない素早く的確なトス技術が鍛えられました」。

崇徳高校バレーボール部は、選手の自主性を重んじた。学年に関係なく選手同士で自由に意見をぶつけ合う環境は、合田の目に新鮮に映った。「私は思ったことをなんでも口にする強気な性格。たとえ先輩でも練習で気を抜いていたら、『そのプレーは何だ、ちゃんとやろう』と面と向かって指摘しました。生意気な新入生がやってきたと思われたはずです。でもそこで妥協して負けたら絶対後悔する。常に日本一を目指す伝統校の一員だからこそ、言わずにはいられなかった」。とんがったスタイルを貫けば、周囲からのプレッシャーがのしかかり、プレーのハードルがおのずと上がってしまうがお構いなし。「文句を言われないくらい練習に打ち込めばいい」と自らを納得させた。「技術を高めるのは当然、心のあるセッターになれ」監督から授けられた言葉も胸に響いた。誰よりも早くコートに入り、どんな練習にも決して音を上げない。コートから離れても寮生活や授業で規則正しく過ごし徹底して貫いた。

巧みなトス技術でチームの要に

初の公式戦出場となった2008年インターハイは、1年生ながら正セッターに起用されフル出場。新チーム結成時には新たに導入した「高速コンビバレー」の要として、3年間すべての県大会で優勝、チームを春高バレー、インターハイ出場に導く原動力となった。合田が素早くトスを上げると、コートの中を目まぐるしく駆け回るアタッカーが相手チームの虚を突き、スパイクをコートにたたき込む。中でも存在感を見せ付けたのが、2009年春高バレーで優勝候補の一角、大阪府代表の大塚高校を倒した一戦。抜群のスピードと変幻自在のトス技術がさえわたり、「さすがは伝統の崇徳高校」と言わしめた。時間差攻撃をはじめとするコンビプレーは、トスの位置とタイミングにより高度な精緻さが求められる。「少しでもトスが乱れたときに、アタッカーが私にマイナスの感情があれば、無理をして打ってもらえないでしょう。普段からきつい言葉を浴びせていましたが、どんなトスにも応じてくれたのは、少しは信頼してもらえていたかなと。技術よりも人間力が磨かれた3年間でした」。

関西の実力校、大阪産業大学バレーボール部を経て、2015年4月パナソニックパンサーズに入部を果たす。「大学時代は十分な実績を残せず、プロの道を半ば諦めかけていました。川村監督が練習生からやってみないかと声をかけてくださり、こんなチャンスはないと、3カ月間がむしゃらになって駆け回りました」。正式に入部後、驚いたのが1球にかける選手たちの情熱だった。「どちらかというと、パンサーズはクールなイメージがありました。しかし、一つのプレーに選手全員がとことんこだわりぬく。清水さんや深津さんなど全日本代表の選手が多く在籍し、学ぶべき存在が近くにいるのは刺激です」。


2016年黒鷲旗

パンサーズのセッターは、合田のほかに2歳上の深津英臣、1歳下の関田誠大がいる。2016年は二人とも全日本代表のメンバーに召集され、リオ五輪出場をかけた最終予選試合に出場した。二人がいない間、開催された黒鷲旗大会は合田にとって大きな自信を勝ち得た試合だった。「パンサーズは過去2回、オリンピックイヤーの黒鷲旗で優勝した実績があります。全日本代表の不在は、絶対言い訳にしてはいけない。同じプロ意識を持って戦うパンサーズの一員として何が何でも勝ちたかった」。

1本のサーブでチームにプラスを

2016年黒鷲旗 サントリー戦

予選リーグ3回戦の対サントリーサンバーズ戦。1セットずつ取り合った3セット目で合田が途中出場すると、流れは一気にパンサーズへ。「コーチから『練習試合でも先発選手がどういうトス回しをしているか把握して、自分が出たときにどうするか常に考えろ』と言われていたので、準備はできていました。やってやるぞと」。コートの中心には得点を挙げるたびに駆け回り、大声を張り上げチームを鼓舞する合田の姿があった。やっとチームの一員になれた喜びを爆発させるかのように、171センチの体がばねのようにはじけ、狙いすまして鮮やかなトスを上げる。勢いに乗ったチームは止まらない。フルセットまで持ち込み、勝ち切ってベスト8進出。次戦で敗退し大きな悔いが残ったが、自分がどういう戦力になるべきか一つの道筋を見つけた。


「全力!!」合田 心平

「全日本代表のセッターが二人も在籍するのはパンサーズだけ。目標が高くても絶対負けたくないですし、全力で練習に励んでいますが、先発出場はそう簡単ではありません。今シーズンはワンポイントや途中出場の機会が多いと思います。たとえ短い時間でもチームにプラスの影響を与えるのが私の役割。たった1本のサーブでもチームが求めるプレーにしっかり応える。まずはそこに集中したい。練習中大きな声でチームを鼓舞したり、最後までボールを追いかけたり、誰でもできるプレーは泥臭く。信頼を着実に積み上げて、こういうときには合田が必要だと、誰からも言ってもらえるようになりたい」。

(取材日:2016年11月1日)

「この場面、お前ならどうする」
自問自答を繰り返し、
コートで躍動する自身の姿をイメージする。
たとえ一瞬でも持てる力を注ぎこむために。

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