逆風であればあるほど、より高く跳べる――福澤は何度傷付き追い込まれても、不屈の精神ではい上がってきた。チーム初となる海外挑戦の道を切り開いたその先に、どんな覚悟で戦い続けていくのか。
五輪に行く、覚悟を決めブラジルへ
たとえ壁が高く、道が険しくても、福澤はオリンピックを軸に走り続けてきた。始まりは大学4年生、22歳で清水邦広とともに出場した北京五輪。5戦全敗の結果に、「五輪の借りは五輪で返す。次は主力としてチームを引っ張る」と雪辱を誓った。だが、次のロンドン五輪は最終予選で敗退し、本大会出場を逃す。「今までと同じ方法では結果が出ない。環境を変えないと」。真っ先に浮かんだのは海外挑戦だった。「パナソニック入社前から海外挑戦を視野に入れていましたが、行かねばと強く感じたのはこのとき」。危機感に拍車がかかる。新たな日本代表チームは若手が台頭し、福澤は選考から漏れた。一方、長らくチームをともに率いた清水は大黒柱として活躍していた。「このままじゃ代表チームから声が掛からない」。
4年後のリオデジャネイロ五輪は年齢的にも最後と決めていた。「オリンピックに絶対出場する、結果を残すんだ」福澤の強い覚悟を会社、チーム、家族が後押しした。当時、福澤のように企業に属した社員が海外リーグに挑戦するには、会社を辞めプロ選手になるしかなかった。「海外に行きたい」と望む若い選手の前例になろうと、会社に籍を置いたまま海外挑戦する道を作り、自ら先駆者となった。妻の言葉も大きな励みになった。「当時、子どもが2人ともまだ小さく、家族を残す不安がありましたが、『やりたいと思った時に行くべき。家庭は私が守るから挑戦しておいで』と言われ決心がつきました」。翌年にオリンピック開催を控えた、ブラジルへ単身で向かった。
ブラジルでの所属チーム マリンガの試合
所属チーム、マリンガでは、開幕スタメンを勝ち取ったが、結果がついてこずにスタメン落ち、そこから数試合控えが続いた。だが、ある一戦で転機が訪れる。福澤と同じポジションの選手が出場し1、2セットを取られたが、3セットから福澤がコートに入りフルセットまで持ち込んだ。「勝てば次の試合からチャンスが回ってくる」プライドをかなぐり捨て、一心不乱に力をふりしぼるも惜敗。その瞬間、今まで感じたことのない激しい感情で体が震え、奥歯が割れそうになるくらい悔しさをかみしめた。「たかがリーグ戦の一試合。でも優勝を逃した一戦くらいの重みがありました」。今まで目の前の一戦にここまで気持ちを込めてプレーをしていたか。覚悟があればどんな窮地であっても逃げずに、気持ちを込めたプレーができる。俺はまだまだ成長できる。30歳を前に新たな可能性をつかんだ。
「自分」を軸に回り始めた競技人生
8カ月ぶりに帰国し、福澤は日本代表に再び招集された。覚悟を持って磨いたプレーで最終予選を勝ち抜き、3大会ぶりの五輪切符をもぎ取る、はずだった。敗戦の喪失感から約1年、福澤は自分自身に確固たる軸を持ちしっかりと前を向いていた。「最終予選で唯一悔やまれるのは、自分のプレーへの迷い。これで勝負するんだという信念を貫けなかった。まだまだ気持ちが弱かったということ」と冷静に分析する。「世界の一流選手は、私生活から練習まで常に自分をコントロールしています。元チームメイトのダンチ選手にパスの方法を聞いた時、『俺の取り方はいい見本じゃないからまねしない方がいい。でも若いころから散々直せと言われたが、この取り方がいいから続けてきた』と。自分にとって何がベストか判断できる選手がトップになれる。今は、ポーランド代表の主将で、チームメイトのクビアク選手がお手本」。
日本代表に初めて選ばれた18歳から、「代表チームで結果を残す、オリンピックに行く」を軸にプレーしてきた。しかし、その軸足が自分へと変わった。「日本人は和を尊重し、組織力のバランスを重視する傾向がある。ブラジルに行って改めて感じたのは、チームよりもまず個人の力。選手の持ち味を最大限生かしたチームこそが強い」。チームスポーツゆえ、対戦チームに合わせ、多少の調整は必要。だがその前に「俺の武器はこれだ」と貫き通せる確固たるものがなくてはならない。「オリンピックに行けず最高の結果を残せなかったですが、支えてくれた会社、チーム、ファンに恩返ししたい。残された時間、福澤のプレーはこれだ、というものを築き上げたい」。
「まず動いてみる」変わらぬ信条
海外移籍の前例を作ったことが象徴するように、「まず動いてみる」が子どものころから変わらぬ行動指針だ。2歳上の兄が小学校のバレーボールクラブに入り、追いかけるようにバレーボールを始めた。中学3年生の時、京都選抜のメンバーとして初の全国大会へ。優秀選手だけが集まる中学選抜のメンバーにも選ばれた。その合宿では、指示された練習だけでは飽き足らず、コーチに1人で話しかけ、貪欲に質問して回った。清水選手とも初めて出会う。「体が大きくすごいパワーがあって目立っていました。同年代のライバルに何とかして勝ちたい、何かつかんで帰ろうと必死。とにかく一番になりたかった」。福澤の代名詞、ジャンプ力の礎ができたのもこのころ。選手中トップの最高到達点を記録し、ジャンプだけは負けたくないと中学時代から今まで磨き続けた。
バレーボール強豪校であり全国屈指の進学校である洛南高校へ。当時の監督は選手の自主性を重んじており、持ち前の行動力を発揮するのに適した環境だった。キャプテンとなった福澤は練習メニューも作った。だが、高校生の知識だけでは限界がある。ならばと、高校OBで、当時中央大学バレー部監督 木村正憲氏(現パナソニック パンサーズ副部長)に直接電話を入れて、ブロック練習を質問したり、実業団チームから指導者を招いたりした。監督に相談せず、良いと思ったら即行動。非常識かもしれないが、チームを強くしたい思いが何よりも勝っていた。あるとき、練習中にメンバーが集中できていないことに腹を立て、独断でミーティングを始めた。様子を見に来た監督から「何をしているんだ練習をしろ」と言われたが、「今ミーティング中です。練習よりも話し合いが大事なんです」と言い返してみせた。「今から考えると生意気なことばっかり(笑)。考え方を尊重してくれた監督には感謝しかない」。結束を強めたチームは、全国大会で優勝を果たした。
中央大学に入学して間もなく、18歳で日本代表に選出された。北京五輪を控えた、大学3年生の時、当時の植田辰哉全日本代表監督の発案で福澤と清水のために20日間にわたる強化合宿を行った。「2人を鍛え上げてオリンピックに連れていくんだ、という気持ちがありがたかった。『オリンピックに出れば人生が変わる』と、監督から経験談をお聞きし、日の丸を背負って戦う気持ちがより明確になりました」。
嫉妬心がある限り、絶対若手に負けない
2009年、パナソニック パンサーズに入部、右のエースとして二度の三冠達成をはじめ、数々の栄冠を手にしてきた。入部した当初、同期の清水は同じオポジットで全日本代表エースの山本隆弘氏、福澤は現パナソニック パンサーズ監督の川村慎二氏と激しいスタメン争いを繰り広げた。「今思い返しても必死でした。『試合に出て勝ちたい』しかなかった」。今、世代的に逆の立場になり、当時のような競争ができつつあると感じる。若手からの押し上げは大歓迎だが、負ける気など毛頭ない。「若手より技術が上だとは思ってない。ただ気持ちは絶対負けない。同じポジションの若手がいいプレーをしていたら、いまだに嫉妬する。それがなくなったら、アスリートとして終わり」言い切った目に闘志がたぎる。
中学、高校、大学と長年しのぎを削り合った清水選手は今もライバルだ。「清水が活躍して自分がだめだと悔しいし。彼の存在があったからこそ今の自分がある」。約15年にわたる付き合いだが、意外にも面と向かって真面目な話ができるようになったのは、ここ1、2年のこと。気心が知れ過ぎた分、逆に距離感があるという。たまにご飯を誘うと、「2人で? なんで?」と驚かれるとか。「何も言わなくても信頼しているし、困った時に相談できる。まるで家族のような存在」と照れ臭そうに笑う。
家庭では3人の娘を持つパパ。三女は今年2月に生まれたばかり。6歳の長女と3歳の次女はとバレーを理解し、応援にも訪れる。ブラジルにいた時は、テレビ電話での短い会話が何よりも楽しみだった。奥さまからは「子どもには甘い」と言われるが、「娘はね、やっぱりかわいいから」とにっこり。試合中、決して見せない優しい表情が家族への愛を物語っていた。
目の前の一試合、ワンプレー
「これぞ福澤だ」、そう言わしめるまで
己の武器を前面に出して戦う
支えてくれたチーム、仲間のために。