ボールの軌道を追う鋭いまなざし、司令塔は周囲の足どりや息づかいを全身で感じ取る。敵の虚をつくスピードでトスを回し、アタッカーに決め手の一打を託す。深津の上げるトスワークは攻撃の要。入部1年目からリーグ優勝に全日本にと縦横無尽な活躍を見せた、パンサーズのセッターが見据える世界とは。
根っこは「楽しい!」、無邪気な少年時代
バレー界で知られる「愛知の深津3兄弟」。末っ子の英臣は、3つ上の旭弘、2つ上の貴之と何でも一緒になってやってきた。「空手、野球、ドッヂボール、水泳――、兄弟みんな運動が大好きで」と思い返す。深津が小学2年生の時、小学校が主体となったクラブチームで、3人は同時にバレーを始めた。「"せえの"で始めたので、2人を追うというより、自分の中では対等なつもり。『お兄ちゃんはすごいな』、なんていう可愛げはないですよ(笑)。兄たちより早くいろんなことに出合えるのは、末っ子の特権ですからね」と少年の顔をする。「1番上の兄は"何を考えているのか"わからなくて突っ込みどころだらけ、2番目が3人の中で1番優しいかな」と兄弟の仲むつまじさも垣間見れた。
クラブチームの練習は週に2回程度だったが、バレー特有のゲーム性にひかれていったと言う。一瞬のタッチでボールを運ぶ。簡単そうに見えて、特殊で高度な技術が多い。始めはボール遊び感覚だったが、技術が身に付くにつれて競技としての奥深さにとりつかれた。「『これは楽しいぞ!』って。テレビで全日本チームの試合を見たり、試合会場に足を運んだこともあります。当時の全日本代表だった加藤陽一さんや西村晃一さんに憧れて、『僕らもすごい選手になってテレビに出るんだ!』なんて言い合っていました」と、夢膨らませた日々を懐かしむ。
上の兄から順に、豊田市立崇化館中学校のバレー部に入部。指導者も部員もバレー経験が少なく、練習もほどほどで本格的にとはいかなかった。深津は左利きを生かしてライトに入り、それまでの経験でチームを引っ張った。中学時代はせいぜい県大会3位まで。「今思えばちょっと物足りないですが、ボールに触る時間が待ち遠しくて。僕の根っこは、この時期に培われた"バレーが大好きだ"という気持ちでできているんです」と、満ち足りた表情で語る。
ひと足先に高校に進んだ兄たちは、それぞれの道を切り拓いていった。長兄の旭弘は名門、星城高校でセッターを任されるようになっていた。次兄の貴之も星城高校へ進み、スパイカーとしての腕に磨きをかけていた。2005年、旭弘が主将を務め、ライトに貴之を配したチームは、春の高校バレーで3位に躍進。名監督と知られる竹内先生の指導で、チームは大きくステップアップを遂げようとしていた。深津も星城高校から誘いを受けた。「セッターをやってくれないかと言われました。自分でもここでスパイカーとしては通用しないと感じて。兄がセッターに転向したのを見てもいましたし、星城高校で新たなチャレンジをしたいと思えました。あと、兄たちだけではなく僕も誘われてうれしかった」と笑う。
リーダーとして開眼、練習や戦術を自ら練る
星城高校は、生徒自ら練習メニューを構成し、運営する独自のスタイルで力を伸ばしていった。「自分たちで考えて取り組んでいる実感がある中で、勝てるようになるとやりがいもひとしお。負けてもどうやったらうまくなれるんだろうって、主体的になれますし。練習は厳しくても常に刺激を欲しているというか、とにかく楽しくて」と、当時の高揚感を振り返る。1年生最後の全国私立高等学校男女バレーボール大会に正セッターで初出場。「全国レベルで闘えば試合ごとに視野が広がりましたし、トップを目指して自分が何をすべきかが見えるようになって」と、セッターとしての新境地も、深津の好奇心をかき立てた。「スパイカーとは全く違う考え方で練習をするんです。例えば、ボールの下に早く入るコツや足運び、いかに味方のレシーブをうまく見せるかと考えるところから教わりました。僕の動き方しだいで、レシーブそのものを相手に脅威と感じさせられる。そんな観点があったとは思いもよらず、セッターというポジションは面白い役割だと感じました」。
もちろん初めからうまくはいかないが、そこは名門ならでは、腕のたつスパイカー陣が押し上げてくれた。「トスを上げれば、エースアタッカーがうまく照準を合わせて打ってくれる。まずはタイミングやスピードなどのパターン、次にボールの質といわれる感覚がどんどんつかめてきて。しっくりいった時はもう快感で」と話す。チームは、時間差やクイックを要に、セッターを中心としたコンビバレーを築こうとしていた。その中でのびのびとプレーした深津は大きな成長を見せ、2年生の2008年、春高バレー準優勝に貢献した。「2年生の時は、良いメンバーがそろっていたのに勝ち切れず。見ていろ、俺らがやってやるよと燃えました」。自ら先頭に立ち、声を出し、自然にリーダーシップをとるのが深津のキャラクター。「感情を表に出すタイプなので、すぐにプレーも熱くなっちゃって。高校の時はそれに周りがついてきてくれた感じです。同じ負けず嫌いでも、行動や発言には出さず淡々とプレーに表していくのが渡辺(奏吾)ですね」。渡辺とはこの時からチームメイトだ。互いに「正反対」と称しながらも、ものを言わずとも分かり合える、同期の絆は固い。
キャプテンになった3年生の時は、監督の信頼を得て練習メニューや戦術までもほぼ1人で考えるようになった。さまざまなところで見聞きした練習法を実践し、相手を見極めて闘い方を決める。大役はプレッシャーでもあったが、強い自分を固持した。「常に誰よりも真剣にやる、1番声も出すし、苦しい時はプレーでめちゃくちゃ頑張りを見せる。かじ取りをするには、精神的にもプレーでも絶対的な存在であるべきだと思っていました。それに皆がしっかりとついてきてくれて」と、充実した表情で振り返る。ボールのハンドリング力もしっかり身に付き、イメージしたトス回しが試合でできるようになっていた。春高バレー準優勝、インターハイ優勝など、各大会でも自己評価以上の結果を残すことができたと言う。キャプテンとして、そしてセッターとして開眼した深津、壁にぶち当たることもなく、思うがままバレー人生を突き進んだ。
セッターの理想像が固まる
高校卒業後の進学先は、兄が4年生、3年生で在籍する東海大学に足が向いた。「僕はてんぐ状態で入ったのですが、大学合流後の練習ですぐその鼻を折られました。パワーはこれまでと桁外れで、有名選手だけではなく全員のスパイク、レシーブ、トス、一つひとつが段違い。かなりの衝撃でした」。しかしここで「面白いじゃねえか」と武者震いするのが深津だ。さらに上のステージが待っている、むしろそれが喜びだった。
長兄が卒業するとすぐさまセッターを継ぎ、高校時代に培ったゲームメークのセンス、大学で蓄えたパワーを発揮した。気持ちを前面に出して一丸となる"熱いバレー"が東海大の持ち味。その空気に、深津のプレースタイルはうまくハマり、2年生から早くも頭角を現した。さらにポジション柄か、3年生のころには一歩引いてチームを見る術も身に付いていた。「チーム全体を見渡しては『本当にこれでいいのか』『東海大学の伝統を守れているのか』と自問を繰り返しました。優勝に貢献できたのは3年生のインカレ、4年生の春季リーグだけ。結果には満足していませんが、1人の人間としての成長を重んじる積山監督に学び、キャプテンをさせてもらって新たな階段を上りました。悔いはないです」と口を結ぶ。ロシアで行われたユニバーシアードでは3位になり、ベストセッター賞に輝いた。
理想とするセッター像も固まった。「2回目に必ずボールに触るポジション、皆が必ずセッターの顔を見ます。司令塔であることはもちろん、メンタルの大きな支えであることを意識するようになりました。それを今もパナソニックで追い続けています」と言い、入社した1年前を振り返った。
存在感でチームを支える、日本一のセッターに
深津は、日本最高峰のセッター宇佐美大輔が在籍するパナソニックを選んだ。「僕と入れ替わりで引退することが分かっていましたが、少しでも一緒にプレーをしてみたいと思いました。大学の先輩である清水さんや、福澤さんら全日本のエースに揉まれ、世界レベルに早く近づきたい。実際入部したら、選手一人ひとりに自信がみなぎっていて、堂々とした空気を感じました」。
短い期間だったが、宇佐美は自分が持つ全てを深津に託してくれたと言う。「練習中だけではなく、毎晩のようにご飯に連れていってもらい、いろんな質問をして、しっかり答えてもらって。次元が違うと感じる技も、練習してスパイカーと呼吸が合うようになるとできることも多くなりました。チーム内だけでなく、ユニバーシアードなど国際レベルでも通じるアドバイスばかりでした」と話す。
宇佐美から引き継いだ背番号「2」、期待もあれば重圧もあり、2013/14シーズンはプライドをかけて闘った。清水や福澤、ブラジル人スパイカーのダンチや、サントスコーチからも熱のこもった指導を受け、攻撃のバリエーションを増やした。コートでの深津は、人一倍気迫とエネルギーに満ち、"新生パナソニック"を印象付けた。「黒鷲旗や天皇杯はとにかくがむしゃらで。Vリーグの3レグあたりから、練習でやっていることが試合でも機能し始めたかな」と振り返る。Vリーグ日本一奪取の原動力となり最優秀新人賞を獲得、全日本の試合にも連続出場するなどの活躍だったが、本人は自戒の念が強い。「勝つためにここに来たんです。でもうまくいきすぎて怖いぐらい。これから勝ち続けることのほうが大事ですし、課題も山積しています」。
全日本の未来への期待もかかる。「日本を飛び出せば自分の甘さを痛感するばかり。日本では僕は若手だと言われますが、世界のトップは22、23歳の選手がチームの中心です。アジア大会で一緒にプレーした星城高校の後輩、石川のような若手が思い切り力を出せるようなセッターでありたい」と表情を引き締め、パナソニックでも全日本でも自ら発言し、豪胆なプレーでリードすると誓う。
夢に見た舞台を一歩ずつ踏みしめながら、「もっともっと」と、目を輝かせて高みを目指す。「まず、パナソニックでこれからも勝ち続けること。そして全日本でまずはリオ・オリンピックに出場し、1つでも2つでも結果を残すこと。そして東京オリンピックにつなげられれば」と夢の続きを語る。
JTサンダーズ、豊田合成トレフェルサに所属する兄らと集まれば、「兄貴たちには負けないよ」とやんちゃぶると言う。しかし、チームメイトや兄ら同志への情に厚く、バレーへの思いを包み隠さず口にする。「本当に、バレーをしている時が1番楽しいんです。バレーボールを愛する1人として、プレーしている皆さんや応援してくれる方々と志を共に、日本の男子バレーを盛り上げていきたい。そのための努力なら、全く苦に感じません」と気を吐く。早くもチームの司令塔として風格を放ち、世界と格闘する姿がクリアに浮かぶ。「東京オリンピックの時は30歳。何もかも未知の世界、楽しみだな」とつぶやき、足早にコートへと駆けていった。
明確なビジョンとプライドを胸に
コートの中央でボールを放つ。
期待も重圧も力に変え
チームに、日本に勝利を呼び込む。