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ピックアップフェイス

福原 健太

外野手、福原健太はいま得点圏打率に重きを置く。「6番、7番打者はチャンスの場面で打席が回ってくることが多い。自分で試合を決める気持ちで」。スタメン1番に起用され鮮烈なデビューを飾った1年目、3番を打った2年目はともに長打狙いが自分のスタイル。どこまで飛ぶかを追求したが、2017年は春季キャンプから大きく意識を変えた。「率をどう残せるか。狙った球は逃さない」。

自分は打ってナンボの選手

意識を変えたきっかけ、そう福原が振り返るのは2016年の都市対抗野球大会。きらやか銀行に2点ビハインドの9回、1番2番が連打し1点差に詰め寄って回ってきた打席だ。3番の福原は、同点打の犠牲フライ。きっちりと仕事をしたが「追いついてその場では喜びました。でも、甘いボールだったんです。1球目のスライダーを空振り、2球目にもう一球来ると読んでいて。しかも真ん中高めの甘い球。フェンスオーバーとは言わないまでも、ヒットで後ろにつなげられたはず」。タイブレークの末に敗れた同戦。仕留めきれなかったスライダーが脳裏に焼きついている。

あれから1年。2017年9月の日本選手権予選、初戦の先制ホームランは新しい福原像を予感させる。「率をどう残せるか。そのためには甘い球を逃さない。今年はミート力を意識してきました。あれはたまたまホームランでしたが、意識は振り回さないように。7割8割の力でミートして、振りぬくイメージです」。理想形は長打力プラスアルファ。「自分のものになってきました。以前は、おりゃあ~って感じばかりでしたし(笑)、今は一つ冷静になれているかな」と自己分析する。

「ルーキーの春から使ってもらい、1年間ある程度できたことで何か勘違いした部分があったかも。自分はまだまだ3年目。どっしり構えてなんて言っていられないし、チーム内にも競争と緊張感があります。ポジションを譲りたくないですからね」。自分と野球、自分とチームを語るとき、その目は厳しさを増す。福原独特の野球観、厳しさを求める姿勢は珍しいプロフィールに表れている。「ちょっと変わり者なんですよ。社会人野球にはあまりいない経歴で」と笑いながら明かす。

緩い環境なら、学校を替えてでも

「二つ上の兄が小学校にあがって野球チームに加入。僕もついていったのが始まりです。幼稚園の年中でしたが、練習着で球拾いや手伝いをしていました。小学校に上がると、やっと僕もって感じで正式加入、そこから野球づくしです。小学校の入学式に僕は五厘刈りで行きました」。兄と福原、また誰よりも野球経験のある父が野球に熱心。しかし、目立っていたのは兄のほうで、高学年になるとエースで俊足の1番バッター。「こういう人がプロになるんだろうなって存在。さらに勉強もできる。よく比べられました。なのに、弟はどうしたんだって」と苦笑する。

福原は小学校を二度転校している。一度目は普通に親の仕事によるものだが、2回目は野球が発端だ。一度目の転校先で入ったチームが、福原少年はどうも気に入らない。「僕はプロ選手になる一心でやっていたのに、周りはのんびりしたクラブ活動のノリ。もっと強いところでやりたいと父に相談したんです」。小学校のくせに、と自嘲するが、熱心な父もうなずいたという。「僕が言うのを待っていたというか。同じ沖縄市内の安慶田ライオンズでやりたいと言ったら、いいよと。学校の真横に引っ越したんです」。緩い環境を自ら抜け出した。本当のスタートはこの年、5年生の時だ。

途中加入でレギュラーを奪うには練習しかない。チームが休みの月、水、金曜は父とティーを打つ。「遊んでいる暇はないと、野球漬けで」。結果が全てと、練習を重ねて2番セカンドをつかんだ。「身長も低くて、セーフティバントばっかり。守備が塁間より前に出たら叩きつけて頭を越す。軟式独特の打ち方です」。5年生で初めて全国大会を経験、試合前の整列でまず驚いたという。「持論ですけど、沖縄の僕らは背が低めな気がします。見上げながら、逆にこんな相手を倒したら……、と闘争心がわいてきました」。6年夏には全国ベスト4、福原の思いは自然と固まった。

中心選手って、そういうこと

沖縄県の代表にも選ばれ、目標ができた。「沖縄を代表する選手になる。中学・高校までは島を出ない」。全国の舞台を踏んだメンバーとともに安慶田中学に上がると、1年からショートに。「3年の最後は3番を打っていました。自分でも中心選手って自覚があったし公言していたんですが……。最後は7月に試合中のけがで終わってしまって」。悔しさを隠さずに振り返るのは、県大会の準決勝。7回までの軟式、アクシデントは大事な終盤の6回に起こった。

一塁ランナーが盗塁、一塁側にそれた捕手の送球を追った福原はランナーと接触。手首を骨折して途中交代した。さらにベンチに下がった後、目を覆いたくなる失点が。福原と代わった遊撃手が、残ったランナーの挟殺プレー中に暴投して決勝点の1点が入ってしまった。「普通にアウトにできたはずが、何かで変わってしまう。野球の深さを初めて知ったというか、そこが面白さと分かって」。試合途中に向かった病院で、負けを知った瞬間を鮮明に覚えているという。

野球を続けていた兄。福原は兄と同じ高校を選ぶ。試合を見に行くことも多かったが、むしろ、兄の背中を追ったというよりも指導者を選んでの進学だった。「この監督のチームで」。ところが、福原と入れ替わるようにその監督は他校へ。幻の監督。さらにイメージとはかけ離れた緩さがチームに蔓延する。あまり練習しない、このままでいいんか、このままでいいんか、と自問した。「プロになるなら、学校をかわるしかない。でも、親に迷惑もかかる。3年の兄が引退して1週間ぐらいずっと悩みました」。決断したのは、1年生の7月上旬だった。

あえて、2年間の高校野球を選ぶ

翌春、福原は北谷高校へ再入学。高校野球のルールでは中退した1年目がカウントされる。つまり、福原の選手期間は2年の秋まで。この選択をバックアップしてくれたのは、他校へ去った幻の監督だ。「今の高校には入れてやれないが……、と北谷を紹介してくれました。3年間一生懸命やれ。周りは気にしなくていい。2年しか公式戦は出られないけれど、その後の過ごし方がお前の人生を変えるはずだからと言われました」。福原は恩師の言葉を、かみしめるように回想する。

弱いと分かって入学した北谷高校だったが、それにしても勝てない。2年春まで守備はセンター。「後ろから見ていて、ピッチャーがダメなんだと。いま、それ投げるかって配球や、パスボールもするし」。相談した父には「お前が投げたから、勝てるわけじゃない」と諭されたが、福原は一言で応じた。「いや、俺が投げて勝つ」。父はうなずいて「その日に投手用のグラブを買ってくれました。次の日に監督に相談。エースナンバーが取れなかったら10番でも11番でも、なしでもいいと」。1勝にこだわって自らマウンドに上がった。ピッチングは我流でアバウトだったが、「でも1球だけですけど、練習試合で143キロが出たり。ちゃんとエースを取ったんですよ」と振り返る。

北谷高校2年の夏、負ければ最後となる先発マウンドで、福原は9回を無失点の快投。しかし味方の援護なく、延長10回に2点を奪われ敗れた。「裏に1点取ってくれたんですけど、遅いよ~って感じで」と、一度も勝てなかった高校時代を笑い飛ばす。続けて、自らが指名した1学年下のキャッチャーに話が及ぶ。「元々彼は内野で、ちょっと受けてもらったらすごくいい。キャッチングが安定しているし、声も出る。監督にこいつを使ってほしいと頼んだんです。でも、ほぼほぼ打てない(笑)。朝練に誘ったりして、コーチみたいな感覚でした。それまで自分のことばかりになっていて、周りを巻き込んで野球をしたのも初めて。彼が公式戦で打ったヒットはうれしかったですね」。

スコアブックを手に

福原はそれからの1年間、練習を続けながら試合になれば制服を着てスコアラーとしてベンチに入った。「ノックも打ったりして。だから選手にはよく声をかけていましたし、何でもハッキリ言うほうで。見逃しして帰ってくる選手には、なんで今の振らない、何しに打席にいってんだ! って。第三者になってみて応援してくれる人の気持ちもよくわかりましたし」。自分が打席に立つときは、取りあえず振るんだと思い続けた1年でもあった。

3年夏をベンチで終え、一息つくタイミングに電話が鳴った。「夏休み前日、北海道の大学からの連絡でした。あの恩師が仲介してくれて、明日から練習に来いと」。沖縄から北海道にとび、福原は1カ月の合宿を経験。練習試合で逆方向にホームランを放ち、進路が決まる。「九州の大学からも誘われていましたが、仲間が多い環境は甘えがでる、東京農大北海道オホーツクに決めました。北海道では強いチームで、監督も明言していました。うちに来て全国で勝負しろって」。

期待を背に1年の春からDHで出場、5試合目からセンターに入って打撃のリズム感も生まれた。「勝てるチームってこんなに面白いのかって、試合が楽しかった」。1年目から日本選手権にも出場、全国の強豪と手合わせしたが、大学で一番の思い出を問うと4年秋のリーグ戦だという。「苫小牧駒沢大との試合、リーグ戦の3試合目。春に北海道の代表枠を取られていたし、何が何でもという意気込みでした。その試合、同点で進んだ終盤の打席、1死満塁でカウント1-3。真っすぐしかないと狙って振りぬきました。満塁ホームラン。たぶん、人生で一番飛んだんじゃないかってぐらい。打った瞬間にいったわと」。球場外の森に吸い込まれた打球を実況してみせる。

ハイレベルから、さらに一歩を踏み出す

この快勝からチームは勢いづき、10戦全てを勝利で飾った。その秋、明治神宮大会は頂点に届かずのベスト4。「監督は僕らの世代を史上最強と呼んで、4年計画で経験させながらチームをつくってきました。僕らが負けた駒澤大が優勝。あそこで勝っていたらって思いますね」。胴上げできなかった悔しさは今も残る。また、ちょうどその大会前にパナソニックとの面接を福原は知らされた。「監督がスーツを持っていけと。社会人野球も全く知らなかったんですが、パナソニックの野球はレベルが高い、というのが第一印象。いい環境だと感じました」。

緩い野球が大嫌いな福原、1つが勝てない苦しみを知る彼は「環境」と口にする。自分を追い込み、打ち込める環境がいま目の前にある。「チームが全国で勝ちあがれないことに歯がゆさがあります。実力的にはもっと上にいける。メンバーと一緒に、今年の都市対抗でノーヒットノーランされた試合の録画を見直しました。甘い球をファウルしたり見逃したり。やっぱりそこを1球で仕留めないとこういう試合になる。決勝の試合も、優勝チームはそこを仕留めていました。その1球です」。

ドーム球場でレフトの守備につくと、観客との距離が近い。「福原! 打てよ! とか職場の仲間の声も聞こえます。親もドームには必ず観戦に来ますし、これまでお世話になった方には感謝の気持ちしかありません。野球をやってこられたことに、プレーと結果で恩返しをしたい」。福原は1年目に都市対抗の補強選手に指名され、頂点の味を知った。「やっぱりあの経験は大きい。優勝の場面、僕は一塁を守っていました。これを自チームでやらなきゃと」。勝負のイメージはネクストバッターズサークルから始まっているという。大舞台に燃える福原が、チャンスの一振りにかける。

(取材日:2017年9月22日)

2017チームスローガンの「一へのこだわり」は
福原の発案が採用されたもの。
一球目、一歩目、一打席、何事も一から。
「優勝も一位」その思いを全員が共有する。

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