幸之助と伝統工芸

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講演会「松下幸之助と茶道」鵬雲斎千玄室(裏千家第十五代前家元)

4月27日(土)に開催いたしました講演会「松下幸之助と茶道」鵬雲斎千玄室氏(裏千家第十五代前家元)の一部をご紹介します。

【幸之助と裏千家との出会い】

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。

本日は、松下幸之助展をなさっていらっしゃるこのパナソニックのミュージアムで、私に幸之助さんとお茶のつながりについて、幸之助さんのお人柄について、何かお話をということでお受けをいたしました。

今もずっと展示品を拝見しながら、ほんとうに懐かしく、幸之助翁のことを思い、しのんでいるわけであります。私はもちろん、うちの先代、14代淡々斎が幸之助翁と大変親しくしていただいて、両方ともがほれ合ったと言ったらおかしな言葉になるのですけれど、会った瞬間から何か幸之助翁とうちの先代淡々斎とが、ぴしゃっと一体感になったようなことであったらしい。これは晩年、幸之助翁が私にもお話ししておられたのですが、「先代の家元さんと会った途端に、何か私、お茶をやらないかんのやないか」と。あの方は大阪弁丸出しでございますので、そういうような言い方をされて、それから何か淡々斎に惹かれて忙しいけれどもお茶を一服たしなむということが、いろいろな意味で人様とのつながりというものが深くなるし、それから人間としての大きな教養を自分で身につけることができる。だから自分はお茶の世界に知らず知らず入っていったんやということをおっしゃっています。

実は、幸之助翁がお茶に入られたのは、戦前なのですね。戦前の昭和十六、七年ごろに独立されて、ご自身でこれだけ大きなナショナルという会社にするまでに、一生懸命いろいろな電球を、今でこそ電球というのは何でもないようでございますけれども、当時はもう大変だったのですね。戦前にお生まれになった方、大分いらっしゃるかもわかりませんけれども、くるくるとネジで回す。あのネジでくるくると回すのを松下さんは自分で研究しておつくりになった。そういうところから、ご自身で一生懸命、電気に取り組まれたのでございます。

それにちょうど、私のほうに大阪で先生をしております矢野宗粋という人物がおりまして、この矢野宗粋と会合でふっと会われて、そのとき矢野宗粋にお茶を一服いただいたというのが、自分が初めてお茶というものを知ったかかわり合いだということをおっしゃっています。

【幸之助の「素直」】

松下幸之助さんというのは、どちらかというと事業の鬼のように思われる方もあると思いますし、実際、事業面については、ものすごく厳しい方であって、ご養子で迎えられた前々社長の松下さんに対しても非常に厳しくご指導になっておりました。私も経緯を知っておりまして、そういうことをいちいち言えば切りがないのですけれども、自分が電球ひとつからこれだけの大きなテレビの普及というものに対しての貢献をなさった。しかし、一言もそういうことについては偉そうぶるということはないのですね。

あの方の、私が一番好きなのは本当に、皆様も先ほども展示室でごらんになったと思います。「素直」と書いてある。自分は小学校しか出ていない、だから字も満足に書けないから一生懸命それを六十の手習いやと言ってお稽古をなさる。それも松下幸之助さんでしたら、立派な紫檀のテーブルの上に毛せんをひいて、その上に紙を置いて、そして端渓の硯でと思いますよね。全然、普通に売っている硯を持ってきて、それで新聞紙の上でですね、紙を置いてお書きになる。写真でも新聞紙の上で「素直」って書いていらっしゃるのですよ。

そういう方なのです。決して自分でぜいたくをなさらない。はっきり言ったら、自分が儲かった、儲かったからこれだ、というような派手に使うということをなさらない方なのですね。そして一生懸命、商売熱心で、何とかナショナルを立派に育てていかなきゃいかん。松下電器というものを立派に次の世代に渡していかなきゃいかん、そういう信念が、いろいろなところに「松下イズム」ということで出ていることを私は自分自身、感じたわけなのです。

ですからそういう実業家であって、それだけのいろいろなことをわきまえて、そして謙虚な気持ちでいらっしゃる。私、その謙虚さということに驚きましたのは、もうナショナルが大きくなってからのコマーシャルを皆さん覚えていますか。「ナショナル、ナショナル〜」というのね。明るくほんとうに楽しい「ナショナル」という、あのコマーシャルの歌ですね。子供たちが口ずさんでいるように、もうテレビはどんどん普及してくるわ、すばらしい電気器具をナショナルがつくられて、我々もその恩恵に随分浴したわけです。そういう大きな会社をやっていらっしゃる松下幸之助総帥でありますけれども、私どもが属しております国際ロータリーの大阪クラブのメンバーであったわけなのです。

ロータリーというのは毎週1回ミーティングがありますので、メンバーは自分の例会に出席しなくてはいけない。でも出られないときには、よそのクラブに行って、メークアップというのをするわけですね。たまたま私が京都の北ロータリークラブにメークアップに行ったときに、入口が何やざわざわーっとしているのですよ。何かと思ったら、松下幸之助さんがひょいひょいと入ってこられた。それで私はびっくりして、松下幸之助さんがまさか北ロータリーにおいでになるとは思っていなかったのでね。それで、「やーっ」と言って行ったら、「いや、あんた、ここに来てはったんですか」と聞かれたから、「いや、ちょっと私もメークアップで来ました」「私もな、ちょっと京都まで来たんで、あんまりロータリーに出んのもいかんから、ちょっとここで聞いたら、やっているというので、来ましたんや」と。

で、「ま、どうぞ、どうぞ」と私が言ったら、みんなもう天下の松下幸之助さんが来られた。まあ、ロータリーのメンバーというのはそこそこの方々ばかりなのですね。それがもう一列になって、「いらっしゃいませ」と。松下さんは、自分でポケットから名刺を出して、みんな一人ずつに「松下幸之助でございます」「松下幸之助でございます」。みんな知っていますよ、そんな松下幸之助と言われなくても。選挙の立候補なら別としてね。ほんとうに自分みずから名刺を出しては1枚ずつあげて、「松下幸之助でございます。ナショナルよろしく」と言ったのです(笑)。私、それを傍でかいま見て、ほんとうにびっくりしたのですね。実るほどこうべを垂れると。

実業家でもいろいろいまして、威張っていて、こちらが名刺を出すと、「お、そうですか」という、こんな人を食っているような人たちも多いのですよね。松下幸之助さんはほんとうに実るほどこうべを垂れると、自分から名刺を出して、「松下幸之助です」。いただいたほうはもうびっくりして喜んでいました。これはほんとうに自分の一生のお守りやというようなもの。後で皆、そう言うておりました。

だから私はほんとうに、惜しい。今の日本にあの松下さんがもうちょっと頑張っていて、大喝一声やっていただいたら、もっと政治もよくなる。世相もよくなってくると思うのですよ。残念ながらお亡くなりになった。私は松下さんに対して、いつもいつもそういう思いでいるわけです。そして日本人全体に「あんた素直にならなあきまへんで」というあのお一言。政治家の方、あるいは今の実業に携わっている方々、学者の方々、あらゆる方に私はその松下さんの「素直にならなあかんで」という言葉を、その真意をね、思ってほしいのです。

素直になるということはなかなかできるものじゃございません。人間はご承知のように、「生老病死」という4つの苦、四苦というのに、もう四苦八苦しているのですよね。そうでしょう。生まれた時から本当はもう苦を背負ってきているのですよ。死ぬまで苦を背負って生きているのですよ。今は生まれて、だんだん成長していくにしたがって、親が育ててくれたことすら、ありがたく思わない。昔ならいろいろな道徳というもので親からもしつけが厳しく、子供たちは親というものをほんとうに大切にする。親を大事にすることによって、自分たちも兄弟仲よく、互いに手をとり合って家庭を築き上げていくということができていたわけでしょう。

松下さんは自分が貧しい家に生まれて、そしてでっち奉公、いろいろなことをしながら苦労をして、自分がこの電気ということにひらめいて、そして電気の会社に勤められて、自分で苦労して苦労して、今の我々が恩恵をこうむっているこういう電器産業というものをほんとうに大きくされた方でありますから、無から相当のものをつくり上げていかれたと。これは今、英語でクリエーティブとか何とか、開発だとか、そういういろいろな言葉を使っていますけど、まさしく私は、松下さんは日本における近代産業の生みの親だと思うのです。

【幸之助のお茶事】

松下さんは真々庵に、おられるときは1週間ぐらいいらっしゃるのですが、その時に、いつも毎朝、毎朝ですよ。7時に私は真々庵へ行くのです。そうすると、背広を着て、足元は下駄でもつっかけられるような、靴下やなくて、靴下式の指割れのあれをはいて出てこられるのです。それで、その真々庵で、私がちゃんと準備したところで、お点前を自分で必ず。それで私に点ててくださるのです、一服。それをいただいた後、もう面会の人が来ているのですよね。その面会の人へどうぞお茶を、というと、みんな恐縮して、緊張している。そしたら松下さんは、「そんな恐縮せんで、気楽にお入り」。で、その相手もあぐらかいてよろしい。松下さんとお茶室でというのはもうみんなキンキンになっている。でも松下さんはどうぞと。「私もあぐらかいてお点前する。よろしいなあ」って、私にこう言われるのですよ。「はあ、どうぞ、どうぞ」と。

それでもう、炉のところであぐらかいて、それでお菓子を出す。松下さんは一生懸命お茶を点てて、「まあ、一服召し上がれ」。この「まあ、一服召し上がれ」、自分みずから茶を点てて、訪ねてこられた方に差し上げる。これですよ。それで相手もびっくりする。まあ、気おされるということもあるかもしれない。お相手の方も「飲み方も存じませんけど、失礼します。」と、もうあえて、私もお教えしません。「どうぞお気楽に、好きなようにお飲みなさい」。そうすると、安心して、お茶を飲まれて、「おいしゅうございました」。それで、あと、そういう方々はお茶室から出て、応接間でいろいろなお願いをなさるわけです。お願いを聞かれたりして、そしてほぐされて、「あかん」と言われても心穏やかに帰ることができるわけですね。

これ、ほんとうにね、私は今の実業家の会社の方々に知らせたいのですよ。コーヒー1杯出すよりもその社長が、「お菓子をどうぞ」と持ってこさせて、勧めて、魔法瓶でいいのですよ。で、お茶碗を持ってきて、自分でさーっと点てて、「まあ、どうぞ」と。外国の人なんかびっくり仰天しますよ。そうすると、何か問題でも起こって、勇んで来ても、ふぁっと。その一碗のお茶でね、何かふわっと気が抜けてしまうのですね。

日本は国際会議やどこに行っても、外交は下手。政治下手、いろいろな交渉下手。大体日本人は語学が上手かといったら、下手ですよね。外国の連中がぼんぼん言ってくるのを自分たちでわかっているような顔をすると、何ぼでも言ってくる。わからなければ、ゆっくり言ってくれる。でも、そういう会議なんかでコーヒーブレイクよりも、抹茶を点てて、堂々と出せばみんなびっくりするのですよ。それぐらいの器量、度量のある経営者がやっぱり出てこなければいけないのです。

政治家でもそうですよ。安倍総理がみずから茶をたててね、習近平さんにどうぞとすればいい。(笑)習近平さん、びっくりしますよ。お茶は中国がルーツやルーツやと言っている。威張っている連中に、総理自体がお茶をたてて、「さあ、どうぞ」。もうびっくり仰天。韓国の朴さんにも「どうぞ」って。それぐらいのことをやってこそ、初めて一碗のお茶というものが平和への役にたっていくのですよ。ただ、お茶はお点前難しいなと思われる。松下さん見てごらんなさいよ。お点前は、確かに帛さばきをして、そして棗を清める、そういう基本なことはちゃんと自分で習得されました。でもその後は、自分の好きなように、私も好きなようにおやりなさいと。

そして、道具でも、あの方は大体派手なものがお好きじゃないのですよ。だから、黒い楽の茶碗とか、大樋のお茶碗とか、そういうのがお好きなのです。それからまた、偉いのは、お茶の道具を道具屋に任せるのではなくて、必ずそれを見られるわけですね。そして好きなのは銘なのです。お茶の道具には銘がいろいろついているのです。例えば楽の一入という作家がいます。この人は4代目なんですね。今、15代目ですから、11代前の人。この一入がつくった茶碗、羽衣という。「ああ、いいねえ、この羽衣は」。もうそれでぴんと、謡はなさらないけど、羽衣のいわゆる謡の1曲を思い出されるのですね。

こういうようにお茶というのは、いろいろと関連があるわけですね。そこに取り合わせするおもしろさというものが出てくるわけなのです。これは機械でも組み立てていくのと同じように、お茶は取り合わせを上手にすることによって、組み立てできる。これが100万円するから、いや、これがもう50万円するからって、そんなものを見せびらかすのではないのですよ。それを大事に扱って、自分がこれ好きだから、あなたどうぞ、この羽衣でという、そういう優しい気持ちで羽衣のお茶碗でお茶をあなた頂いたらどう思います? すごいでしょう。

【幸之助の「道」】

 私が松下さんに一番聞かれたのは、「わびって何でっしゃろ」と。わびというのは、日本人にとっては、どなたでもいろいろな考え方があるかもわかりませんけれども、わびという言葉については、松下さんに私が申し上げたのは、私どももほんとうのわびというのはどういうものかなかなかわかりませんと。しかし、いろいろな点から私も修行した上から考えて申し上げると、不完全の美ということが、わびの1つの広義。英語で言えば「インパーフェクト・ビューティー」。パーフェクトじゃなくて、インパーフェクト・ビューティー。これは不完全である。だから、完全なものであるか、完全なものに至るまでのいびつなものであるか。その点はそれぞれの方がそれぞれの見識によってお考えになればいいでしょう。しかしわびというのは、昔から言われておりますように、「正直にして、慎ましやかにして、おごらぬさまなり」と。これがわびです。はーっと、松下さんはそのとき言われた。なお、そのインパーフェクト・ビューティーって、私はわからへんけれども、今の「正直にして、慎ましやかにして、おごらぬさま」。必要ですな。人間にとって、これほど必要な教えはないと思いますと。

そして松下さんが好んでよくお書きになったのが今の素直さと同時に、「道」という字。「ウェイ」、道という字ですよ。ロードじゃないよ、道。道というのは、自分が志した以上はその道を歩いていく。とにかく目に見える道を歩くのではない。目に見えない道を自分が歩んでいるわけです、みんな。どの人でもみんなそうです。その自分が歩んでいる以上は、その道を、先わからないけれども、とにかく一生懸命歩くことである。一生懸命歩くことによって、その道が、20代のときにはわからない。30代のときには、ややその道がわかってきた。40代のときには、そうか、この道をもっとこういうように、自分の歩く道を、自分自身が改良していく。要するに心を変えていく形態。50代になってきて、「はあー、そうだったのか。あのときはこういうことをしたらいいかな」。

特に宋の時代に言われた言葉で、「先憂後楽」という言葉があります。先に憂える。はっきり言えば、先に後悔するという意味。後楽、後の楽しみ。これが現在は「先楽後憂」になってますね。先に楽しんで、もうどうでもええわと、皆こうです。これじゃ、道にならないのです。やっぱり先憂後楽でいかなきゃいけない。苦しんで、釈尊がおっしゃられた、四苦、苦しんで、苦しんで、正しいものを見る、正見、そういう気持ちで一生懸命自分が与えられた道を行く。それによって、死ぬときに初めてその苦しみから逃れることができるであろうということなのです。なかなか難しいことですよ。なかなかできませんよ。でもね、そういうことが本当にできるようになるために、いろいろなそういう自分たちに与えられたそれぞれ道というのがあるのですよ。

皆さん方ね、「思う」という字、書いてごらんなさい。まず田でしょう。田んぼの「田」。その下に「心」です。みんな1人ずつお母さんのお腹から生まれた時に、1つずつ田んぼが与えられている。それぞれみんな田んぼが与えられている。同じ田んぼじゃないのです。あなたにはこの田んぼ、あなたこの田んぼと、この田んぼを耕していくのはあなたよ。他人ではないんやぞ。あなたがこの田んぼを耕していかないかんよ。それなのですよ。それが道なのです、与えられた。そしてそれをやることによって、自分の与えられた田んぼが大きくもなったり、小さくもなったり、ああ、日照りばっかりある、どうしたらええやろう。ああ、雨ばっかりや、どうしたらええんやろう。そういう苦しみの中でそういう田んぼを自分が守り育てていくことが思うということなのですよ。だからそういう思いというものを道と合わせて、皆さん方が思って、考えていただくことによって、初めて私は松下幸之助さんのもっともっとすばらしい人間味と、偉大な松下さんの道を、私たちの模範にして歩んでいきたいな、そういうように思う次第でございます。

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