Panasonic Sports

ピックアップフェイス

鶴川 将吾

ピッチャーマウンドに向かう鶴川の背中に、気炎が立ち上がる。学生時代に知った頂点、その後の厚い壁を打ち破り、ひたすら自分の野球と向き合い続けた。入社7年目の右腕、鶴川の経験と度胸が、チームの総力を押し上げる。

エース・鶴川の才が見いだされる

2014シーズンの都市対抗野球本大会、JR東日本とベスト8入りを賭けた1戦。1点リードの7回、無死2、3塁で登板した鶴川は、「やっときた」とこぶしを握りしめた。鬼気迫るピッチングで3者を連続凡打で仕留め、チームをピンチから救った。しかし8回は痛恨の本塁打を浴びるなど逆転を喫し、天を仰いだ。「これが、都市対抗――。もう負けるわけにはいかない」。

12歳で親元を離れ、中・高・大と名門でエースを張った。華々しい活躍の裏では、1人涙を流して耐えたことも、物に当たっていらだちを静める時期もあった。投げれば"絶対的なエース"、"ドラフト候補"と称賛されながら、度々けがに苦しみ精彩を欠いた姿もさらしてきた。『ピッチャーは孤独』とよく言うが、今の鶴川はチーム・パナソニックの和や支え合うムードに全幅の信頼をおいている。『必要とされている。応援してくれている』環境が、何よりの宝だと語る。

野球との出会いは保育園のころ。3つ上の兄をまねてボール遊びをしていた。兄は大学まで野球を続け、今は公立中学校野球部の監督をしている。鶴川は自然と地元・奈良県の下市ウイングスに入り、小5の時からピッチャーをするようになった。「当時の思い出はマラソン。監督に言われて、野球の練習がない日は陸上クラブの長距離練習に参加しました。家に帰るのは22時ぐらい。しんどくて、毎回泣いて嫌がっていました。でもそのおかげで球速がぐんと伸びた」と、力を付けたきっかけを語る。一気にエースへと成長した鶴川。6年生の時、万博球場で運命が変わった。小学生の西日本大会を見に来た名門・明徳義塾の狭間監督(当時)が、鶴川に目を留めたのだ。「たまたまだと思うのですが、スカウトされて僕も両親もびっくり。高知県の山あいにある中学校を見学して、さらにびっくり。ここに入ったら絶対に逃げられないなって(笑)。両親はやめておこうと言ったのですが、どうしても引かれるものがあって。夢の甲子園まで1番の近道だと思ったので」と幼心を思い出す。

怖いもの知らずで飛び込んだものの、やはりホームシックに陥った。「練習自体は平気でも、寮生活では気が休まらなくて。布団の中で泣いたりしてました(笑)」とかわいげなエピソードを明かす。しかし1カ月もすれば吹っ切れた。本人は「適当にやっていける性格だから」と言うが、厳しい監督のもと、寮で生活全てを管理され、野球に向き合うしかなかったのが実情だろう。

野球の技術を何もかも一から教わり、投球フォームも早々につかんだ。下半身の動きから最後のリリースまで力が全身を駆け抜ける感覚。「投げる動作そのものではなく、体の連動性が分かるように指導してくれたんです。コントロールに自信が持てて、ストレートでどんどん勝負できるようになり、面白くなっていきましたね」と振り返る。ピッチャー・鶴川は、中学2年生の夏の全国大会で花開いた。1回戦の先発起用に好投で応えると、決勝終盤のマウンドでも見事に『ゼロ封』して優勝した。そこからの快進撃を、「中学時代は打たれた記憶がない」と表し、血気盛んな時代を懐かしむ。エース・鶴川を擁する明徳義塾中は翌年も快勝し、史上初の全中大会連覇を達成した。

学生時代に頂点を知り、最後はけがに泣く

中学時代から、高校野球の厳しさは見えていた。鳴り物入りで入部した鶴川も、寮生活から何から120人ほどの部員の中でもまれた。しかしグラウンドに立てば、鶴川は"飛び級"の活躍を見せた。「入学してすぐ、春の高知県大会のチャレンジマッチでチャンスをもらいました。県大会王者を相手に公式戦初登板で初完封! これもたまたまですが、注目してもらえました。運がいいですよね」と振り返る。周囲に認められてメンバー入りを果たした鶴川は、さっそく貴重な体験をする。2002年、明徳義塾は夏の甲子園で優勝。鶴川は控え投手としてその瞬間に立ち合った。「僕は2回戦と準決勝のリリーフ登板だけでしたが、夢の舞台ですよ。しかも優勝しちゃった! って。秋からは背番号1を託されて、さあいよいよだと意気込みました」。

強豪チームのエースには、精神的な成熟も必要だったと振り返る。「そのころ、味方のエラーに対して露骨にいらだちを表したり、冷静になれない面があって、コーチにめちゃくちゃ怒られました。でもポーカーフェイスで対応すると、気持ちも本当に変わってくるんですよね。『よし俺がカバーするぞ、抑えてやる』と思えるようになって」と打ち明ける。するとメンバーからもよく声をかけられるようになったと言う。「それまでは近づけない雰囲気を自ら出していた。でもピッチャーマウンドで1人ではどうしたらいいか分からない時に、声をかけてもらうと安心するんです」と、穏やかな表情を浮かべた。

鶴川が在籍した3年間、明徳義塾は全ての甲子園大会に出場。しかし投げ続けるエースの宿命か、2年生の終盤に股関節のけがを負った。春の大会は全試合に登板するも、症状は悪化。注射を打ちながらやり過ごし、力の限り練習をこなして自分を取り戻そうと焦った。センバツにはなんとか持ち直して全試合に先発し、ベスト4まで勝ち上がった。しかし準決勝では制球に苦しみ、わずか2回で交代、敗退に唇をかんだ。以降も調子は上がらず、「3年生の夏の甲子園では先発は1回戦のみであとはリリーフ。3回戦で負けました。最後が1番だめだった」。力が全く出せずに終わってしまった、とつぶやく。早くからドラフト候補とささやかれていたものの、自ら進学を志した。「日本一練習が厳しいと聞く亜細亜大学で、一からやり直したいと思っていました」と明かす。

大学では、名門出身の鶴川すら「全てのレベルが違う」と感じた。「キャプテンは現在ソフトバンクホークスの松田 宣浩さんでした。真剣勝負だと言われて自信のストレートを投げたのですが、弾丸ライナーでレフトスタンドに持っていかれて、度肝を抜かれました。東都リーグはプロに行くような人がゴロゴロいて、皆パワーが桁外れなんです」と当時の衝撃を話す。体重が60キロほどしかなかった鶴川は、1年生の間にランニング、ウエートトレーニングと体づくりを重点的に行った。それが奏功し、球速150キロを記録する本格派へと、また1段ステージを上がった。2年生の春は1部リーグ戦で4勝をあげた。しかし、ここで右肩亜脱臼に見舞われる。3年生の時に内視鏡手術を受けてからは、しばらく腕を動かすことすらできない状態だった。「可動範囲が変わってしまったのでしょうね。リリースまでの最後の感覚がおかしい、フォームを見直してもまるでだめ、走っていても感覚が違うという状態でした。いろんなドクターに掛け合ってもみました。1つ修正してみると別のところがうまくいかない。その繰り返しで」と、悔しさをにじませる。4年生になっても自分の体をコントロールできないまま、試合出場もままならず、時間は無情に過ぎていった。

新たな自分でチームに恩返しを

プロ入りを決める同級生もいた。そして鶴川には、「来てほしい。戦力になってほしい」とパナソニックが申し出た。「思うように投げられない、大学で結果を残してもいない。戸惑いました。自分でもまだリリースの感覚が分からない状態で、入ったところで活躍できるのか不安だった」と思い返し、続けた。「ただ、自分を必要としてくれることがよく分かったんです。よし、精いっぱい頑張ろう」と誓った。

「パナソニックに入部してから数年間、都市対抗に出たこともなければ、メンバーに入ったこともありませんでした。投げてもストライク1つが入らないありさま。これじゃあ使ってもらえませんよね」と告白しつつ、「その間、データ係をやっていました。それが生きたんです」と新たな展開を語る。時には、チームの練習から離れて他チームのデータ収集も行った。そこで初めて、自分のチームを外側から見る経験をしたのだと言う。「これもまた運がよかったんです」と笑って、付け加える。「もちろんその時は決して面白くはありませんでしたよ。投げたいのが本音ですから」。マウンドやベンチにいては分からなかった、バッターの特徴が見える。1球1球が、試合全体の中でどのような意味を持つのかが見える。緩急のつけ方など、データ以上に感覚的な収穫も多かった。鶴川はここで、自身の『野球観』に変化を感じとった。

とはいえ3年目になると引退を覚悟する瞬間もあった。「そんな自分にチームが肘の手術を勧めてくれて。ここで終わってもおかしくない野球人生。なのにチャンスをもらったんです」と思い返す。「術後3日間の痛みは壮絶。ちっとも腕を動かせないところから始まって、リハビリは肩を手術した時と比べものにならないほどきつかったです。痛みと闘った1年間、支えだったのは"都市対抗で投げたい、チームに必ず貢献する"という気持ち。それだけです」と語る。

肩と肘、両方の手術を乗り越えた人は、そうはいないはずだと自分を奮い立たせた。これまで得たあらゆる経験をかみ砕き、『ピッチャー・鶴川』をゼロから築き上げる覚悟だった。これまでさんざん苦しんだフォームの再構築。最終的に体の感覚をフィットさせてくれたのは、『気持ちの変化』ではないかと話す。「投球のスタイルは、大学時代の"真逆"と言えるほど変えました。球種も決め球も違います。それに加えて、どんな役割でもやり抜きたいという強い気持ちがあります。昨年は新人の気持ちで臨みました。今シーズンは公式戦0敗、負けない投手が目標です」と力強く訴える。

冒頭に出た、都市対抗でマウンドに立った時のことを最後にもう1度教えてくれた。「7回で登板した時はすごく興奮していて、無我夢中で投げました。あまり覚えていないんですよ。次の回は妙に冷静で『都市対抗のマウンドだ』と感極まって。いろいろと考えて投げようとしたら、打たれてしまいました。やっぱり僕は頭で計算するだけじゃなくて、ガンガン攻める気持ちも必要みたい」と、楽しそうに笑った。人一倍の経験を積んだ鶴川が、今とても純粋な目をしている。

(取材日:2015年1月20日)

あの苦しみがなければ、今の自分はない。
仲間と共に闘っている、その実感が鶴川を強くする。
信頼し、信頼されることが、野球人生の極み。
キャッチャーミットをめがけ、迷いなくボールを放つ。

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