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ピックアップフェイス

北出 浩喜

第一にチームが勝つこと、自分はどんな場面で出ても、勝てる投球をする。北出浩喜は目標を、シンプルに集約する。「2年目の2016年は勝負の年。勝てる投手を目標に、ベストを尽くす」。全力で腕を振りぬく躍動感あふれるフォーム、誰もが目を見張る150キロのストレート。「三振へのこだわり」を問うと、わずかに笑みを浮かべて「こだわりません。でも、必要なときは狙って取りにいきます」と頼もしく宣言する。

ああ、負けた。今日も負けた。

「中学までは、野球が楽しかった。ただ、それだけですね。実際あまり覚えてないんですよ」と、ひと言で片付けてしまう北出。石川県の地元で、少年野球クラブに入ったのは小学校3年生。学校でもらった募集のチラシを手に、「入ろう、入ろう」と仲間と誘い合わせてグラブを持った。影響を受けたのは、8つ年が離れた兄。「自分の野球人生は、高校まで兄の後ろをついていっただけ。小学校高学年になると、兄はコーチ役になって、チームの練習にもつきあってくれました」と、ボールを投げあった、幼少時代を振り返る。

最初のポジションは捕手で、ピッチャーに専念したのは5年生から。目立つポジションだが、人前に立つのが苦手で、泣きムシだったという。「チームも弱かったですね。地区に10チーム以上があるのですが、うちの戦績は下から2番目。試合後も淡々としていて、ああ、負けた。今日も負けたなって。悔しいって感覚がなかった」と、苦笑する。「中学の軟式野球部はもっとひどくて、自分たちが3年生の代は、確か一つも公式戦で勝ってないはず。練習試合も勝った記憶があまりない。遊びみたいなもんですね」と、現在に至るプレーヤーからは想像できないプロフィールを明かす。

球児の夢、甲子園も、当時は頭の片隅にもない。「野球にこだわりもないし、勉強も大嫌い。進学どうするんだ? と中学の先生に迫られました。運よく、兄が通った高校の野球部で、監督がまだ現役を務めていて、推薦をもらえたんです。ラッキーって感じでしたね」。一方で、「負けてばかりでしたが、小学生のときから野球そのものが好きでした」と北出。弱々しいチームだったが、野球が続いた理由はそこにある。緩やかな日々が反転、ここから本物の「野球人生」が始まる。

「130」「140」、跳ね上がるスピードメーター

「お前のストレート、速くないか?」。小松商業高校に入った1年の秋、北出のスイッチを入れたのは、練習試合の投球を見た先輩のひと言だった。スピードガンは132キロを表示。「高校に入ってすぐは、110~115まで。それが、秋に自分でも驚くほど切り替わったんです。何かしたっけ? と自覚はなかったのですが、とにかく132の数字。それで、パンと野球に気持ちが向いて」。スピードが命と目覚めた北出は、2年生の夏に大一番を迎える。甲子園を頂点とする夏の県予選、その初戦で当たったのが、石川県最強の金沢高校だった。

「あの金沢に勝ったんです。なぜか、負ける気がしなかった不思議な試合。自分は最後に抑えで出て、ホームランも打たれた。でも、アウト一つ取るたびに、ベンチがすごい盛り上がりで」。この試合で北出は139キロを記録、その後も県ベスト8入りに貢献した。さらにレベルアップを、と投球フォームの改造に挑んだのは2年生の冬。「新任の北橋監督と、全てを見直そうと。実はその秋、練習中にボールを踏んで足首を捻挫。エースナンバーがつけられなかった悔しさもありました」。股関節や肩甲骨の動きを意識し、毎日投げ込んだ。新たな投げ方で、至るところが筋肉痛の悲鳴を上げる。真冬の石川県、ブルペンのすき間からは容赦なく雪が吹き込む。「初めて、野球で厳しさを味わいましたが、反復練習で感覚をつかみ、ボールが生きてきた」と手応えがあったという。

成長はピッチングの安定感に現れた。試合、相手に関係なく調子の波が少なくなっていく。過酷なトレーニングを経て、北出はついに141キロを繰り出す。それも、龍谷大平安と組まれた春の練習試合で記録した。全国屈指の強豪校を相手に、速球とスライダーを中心に5回を失点ゼロで封じてみせた。試合は後半を任された後輩が逆転打を浴び、2-1で惜敗したものの、「自信になりました。そこから、どんどん野球が面白くなるし、チーム自体もバッティング含めて強くなって。負けることが嫌だ、と高校最後の春に、ハッキリ自覚しました」と、自身の転機を語る。

夢じゃない、すぐそこに「甲子園」が見える

北橋監督との出会いがなかったら、今の自分はないと北出は回想する。「キャッチャーの出身で、とにかく勉強熱心な方。加圧トレーニングを取り入れたり、配球の勉強ができたのも監督のおかげです」。遠征で他校に行ったとき、監督同士の会話が耳に入った。「あの投げ方は、どうやって教えたのですかと、強豪校の監督が聞いているんです。これで確信を持ちました。これまでの練習は間違ってなかったと。で、北橋監督は『何も教えていない……』とか答えていて。本当は、めちゃめちゃ厳しかったんですよ! 特に下半身、足の使い方なんて、相当に言われました(笑)」。

迎えた3年の夏、県大会3回戦の相手は日本航空高校、これをコールドで破ってさらに勢いづく。「前年の石川代表でしたし、実は『ここで終わりかもな』と、先発したんです。そうしたら、先制点を取ってくれて、球場のマウンドもすごく合うし絶好調。快勝でした。キャプテンを中心にまとまり、メリハリがあるいいチームだったんです」。いよいよ甲子園も――と意識した4回戦、その初回に脇腹を激痛が走る。「2回まで我慢したんですが、全力で投げたら血を吐きそうなくらいの激痛」。後輩投手に託して医務室から見守った試合は、仲間が投打ともに奮起して勝ち抜いた。「試合後、ジャージ姿で整列に入ったとき、号泣しました。次は頼むぞってみんなに声をかけられて、堪えられず」。準決勝のマウンドに、痛み止めを打って北出は立った。決勝の相手が先に決まり、駒を進めてきたのは春に勝ったチーム。ここさえ勝てば。

「結果は3-1。負けました。テーピングはしていましたが、自分の投球フォームは崩れなかった。ただ、一つだけ忘れられないプレーがあります」。1点ビハインドの8回、一死1塁のバント処理。内野が「1(ファースト)」と声を上げる中、北出は2塁に暴投して傷口を広げた。「冷静に、二死2塁でいいから、後を抑えて最終回に逆転。そういう風に判断できなかった。ランナーが見えていると過信したんです。満塁策で埋めたのですが、結果、レフトフライで3点目を与えて。悔いが残るプレーです」。敗れたものの、県ベスト4は17年ぶりの快挙。たたえる周囲の声に迎えられ、記憶に残る試合を重ねた北出、「やりきったか、といえばそこまでじゃない。でも、強豪といい試合はできたし、『やった感』までですね」と高校時代を総括する。

野球人生、自分が選び抜いた道へ――

「高校を出たら就職が基本線」。3年生の春にも決意は変わらなかったが、北橋監督の説得にあう。「大学から3つ話が来ている、その中から選べと。学費が免除になる特待生で。自分は4人兄弟、父親のひとり親家庭でしたから、その条件で野球を続ける決意ができました」。大事な試合は欠かさずスタンドにいた父、都合をつけて応援に来てくれた兄の存在が背中を押した。

「今までの野球人生もずっとそうですが、誰かがライバルって意識がまるでない。気にするのは、自分のレベルが、どこにあるかだけです」と話す北出。大学に入ってすぐ1年の春から先発登板し、リーグ戦で、二連続完封と華々しくデビューを飾る。中部大からは7奪三振、名城大からは8奪三振で強烈なインパクトを残した。「事件と言っていいぐらい、本人が一番ビックリ。完封しちゃった、大学でも通用するなと。でもそこからが……」、2年の春にチームは0勝6敗で、まさかの二部リーグ降格。トータルで防御率は1.85と残せたが、自身が打たれる日はチームもそれなりに打てる。逆に抑えると打てずに試合を落とす。「投打がかみ合わなかったとはいえ、自分が降格させてしまったようなもの。振り返れば、1年目の好成績で調子に乗ってしまい、自分をメーンに考えていました。チームでなく、個人の結果だけ気にしているからこうなるんだって、後から分かりました」。

転落すると、一部のハードルは高い。まず、ABに分かれた二部の優勝校同士で勝ち抜かないことには、入れ替え戦にも進めない。その上で、一部のチームと争う3試合で、勝ち越しが条件。「4年生の春に勝ちあがり、秋は一部。自分の代で一部に戻して、後輩に渡す、そういうつもりでした。でも、結果は入れ替え戦で、中京大に2戦2敗のストレート負け。初戦は自分が先発、そのとき試合中に後輩に声をかけられて、150キロが出たと。今それは、どうでもいい。負けられないって必死でしたが、思い出しても悔しい負けです。次の試合は後輩が打たれて、完敗でした」。

本来であれば、秋が最後のシーズンだが、北出は悔しさを抱えながら、ひじの手術に踏み切る。「だましだましなら、できた。でも、自分の野球人生を考えて決断しました。大学の監督にわがままを言い、入部が決まっていたパナソニック野球部にも、不安をなくしてから行かせてくださいとお願いをしました」。投手・北出は、初めて自分の道を選択した。

表裏一体、全ての経験を生かしきる

2014年 JFE東日本戦 藤井

大学4年の春、プロ野球一本に決めていた北出は、一度パナソニックの誘いを断っている。「それでも都市対抗を見に来てくれ、と北口副部長(当時)に言われて、2014年の初戦をスタンドで観戦したんです。そのJFE東日本戦で気持ちが切り替わりました。パナソニックはヒット1本で1点だけでしたが、藤井さんが9回を完封して勝った。こんな試合が自分につくれるだろうかと考えました。ドームの雰囲気も含めて、この舞台で投げたい」。長く野球をやる――、そのために手術をする、パナソニックで投げると。「今も経験豊富な藤井さんや多くの先輩たちに学んでいますし、意識はしますがライバルじゃないですよ」と話すが、これまで手本にした選手や、プロ野球選手の名を挙げない北出が、たった一人、名前を出した。

まず万全で投げられるようにと、手術明けの入部1年目はフォームの修正から始まった。「抑えで、と役割を決めていただいた中ですが、1年間を投げぬけたことは一番の収穫です。ただし、引っかかっているのは、やはり日本選手権の初戦」と、京セラドームのマウンドに上がった8回を振り返る。同点に追いつき、終盤を託された継投だったが、四球から1塁・3塁のピンチを招いて、犠打で決勝となる1点を失った。「勝てる試合、接戦をものにしていくのが強いチーム。今年は相手に流れを与えない、もしも負けていたら自分がそれを取り戻せる投手になりたい」と、自分に課す。


「勝てる投手」北出 浩喜

「自分の野球人生は、どうも表と裏がついて回る。大学1年生と2年生もそうですし、2015年の二大大会も都市対抗は良くて、日本選手権は……」と振り返る。「都市対抗は、補強で日本新薬さんに入って、初めて経験した全国の舞台。初戦は無死1塁・2塁をゼロで切り抜け、2戦目も一死1塁・2塁から登板して、併殺に打ち取った。でも、自チームで出場して結果を残さないと意味がない。あの投球は自信に、日本選手権は反省材料に、両方を今シーズンに生かします。まずは、都市対抗に出て、一つでも多く勝つことが目標です」と奮い立つ。キャンプから連投がきく肩、ひじを意識して投げ込んだ。揺るぎない口調で北出は宣言する、「どんな場面でもいきます。必要とされるところで、精いっぱい投げます」。

(取材日:2016年3月2日)

スタートから全開で挑む、勝負の年、
自身が掲げた目標は「勝てる投手」。
「ピッチャー 北出」のアナウンスがドームに響くとき、
最高の舞台で、#16が躍動する。

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