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第6話 真空管、音の記憶。

第6話 真空管、音の記憶。
 
 
「よく、こんなモノ作ったねえ」と、赤いメルセデス・ベンツ380SLを前にして目を輝かす向村。「よく、こんなモノって、こっちのセリフだよ。真空管がよく目立つ、このフロントパネルのシンプルでキレイな仕上げ・・・たいしたもんだよ」と、M社長も満面の笑みで切り返す。新製品の真空管カーオーディオ、TX5500を実装したデモカーをカスタマイズしてくれた製作会社のM社長も、実は真空管オーディオを愛して止まないマニアのひとりだったのだ。1970年代の補修パーツを取り寄せて、2DINサイズの最新オーディオシステムをセットした、世界で1台のメルセデス・ベンツ。今回のカーオーディオをデモンストレーションするに際して、向村が出した注文とは1970年代半ばから1980年くらいまでの車種で、とにかく目立つヤツ。M社長へのメッセージは、これだけで充分だった。ふたりで取り組むデモカーの製作も今回で4台目となり、気心の知れた仲だったのも理由のひとつだが、それにも増して真空管オーディオとは何たるかを熟知したM社長には、実装されるべく用意されたTX5500を見てもらえば、おのずと目指すべき方向性は理解してもらえると、向村は確信していたのだ。イメージどおり、いや、それ以上の仕上がり。ふたりでシートに納まり、デモカーでの試聴が始まる。
 
 
「分かりやすい味付けだよね」とM社長。真空管オーディオを愛好する彼の耳は、すかさず新製品の特徴を分析する。今回は、あえて真空管の音だ!と分かるように設計した向村の意図は的中した様子だ。ひとくちに真空管のオーディオは「深い音」だと言われるが、真空管らしさを意識してイメージ通りのゴールにたどり着けたのは、やはり自作のアンプで身につけた、経験値によるセオリーによるところが大きい。やわらかく、奥行きのある音。特に感じられる生音の艶は、デジタルソースがアナログに変換された後に設けた真空管の働きなのだ。現代のオーディオが出す音響は、時として「痛く」感じてしまったり、聴き終わった後に「疲れ」が残ってしまう場合がないだろうか? 音響特性上の優等生ではなく、その音と寄り添えばリラックスできる、心理的なスペックを盛り込んだ真空管カーオーディオ。ダイナミックレンジは広いけれど、聴感はやわらかい。弦の響き、ピアノの粒だち、ヴォーカルの余韻・・・。小編成の生楽器や人の声によって作り出された音楽を、このオーディオシステムで聴いて欲しい。そこには、現代のカーオーディオでは表現されなかった「何か」が聞こえてくる筈だ。フロントパネルに見える、真空管の温かい光に似た何かが。
 
 
「向村さん、BPMって知ってる?」 唐突に尋ねてくるM社長。「答えはビート・パー・ミニッツ、すなわち1分間に何回4分音符が鳴るかっていう曲のテンポを決める単位なんだけど、今聴いているカルテットには、そんな定規は当てられないよな。人間の演奏する音楽って、ゆらぎが命みたいなものだしさ」 M社長の言いたい事は、よく分かる。最近の「打ち込み」と呼ばれる音楽は、コンピュータで制御された一定のリズムに乗せた正確無比なバックトラックと、拍のアタマにジャストミートする様にデジタルで切り刻まれ編集されつくしたヴォーカルが乗っている。この手の音楽を再生するには、今回の真空管オーディオは相応しくない。サイボーグ化され、合成されたグルーヴと、無理矢理に圧し拡げられた低音。真空管オーディオの全盛期には、世の中に存在しなかった音響が、今では音楽の消費を支えるメインの商材になってしまった・・・。
 
 
完成した真空管カーオーディオを実装した赤いメルセデス・ベンツ。カーマルチメディアカンパニーへの納車と試乗を兼ねて、国道246号線を流す。骨董通りに入ると、視界を横切る青山ブルーノートのファザード。あの場所で演奏される音楽も、BPMでは計測不能な類だ・・・。この新しいカーオーディオは、聴くべき音楽を限定する傾向がある。でも、それでいいんじゃないのか。もちろん、トレンドを意識した製品は必要だが、それだけでない新たな選択肢を提案するのも悪くない。「小さな差」ではなく「あきらかな違い」を、今回のプロジェクトでは作りたかったんだ。技術屋からすると、挑戦しがいのある面白い仕事だった。勇気を持って一歩踏み出した結果は、これから出てくるだろう。爆発的なヒットで、世の中を塗り替えようなんて思っている訳じゃない。でも、この新たな選択肢に賛同してくれたユーザーは、自分の車の中で、「リラックスのスイッチ」を発見してくれるだろう。そして、そこで再生される様々な音楽が、それぞれのリスナーにとって忘れがたい「音の記憶」をもたらしてくれるに違いない・・・。ちいさな真空管の中には、そんな音楽の魔法と響きあう秘密が封じ込められているのだから。
 
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ビー・フラット・チューブ
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