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パナソニック・ホーム 現在のページは、isM トップ > の中の真空管、音の記憶。 〜真空管カーオーディオ〜 > の中の第1話 オーディオファイルの休日のページです。

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第1話 オーディオファイルの休日
 
 
世間一般の勤め人と同じく、メーカーで車載用機器の技術部長を務める向村にとって、自由時間を確保するのは容易な事ではない。食べる、眠る、そして働く。24時間のパイチャートは、みるみるうちに生きるために必要な項目で占領されていく。僅かに残された鋭角のエッジを持つ一切れのパイ。その時間を何に使うべきなのか? 「人はパンのみで生きるのではない」とキリストは説き、一方で「私が2斤のパンを持っていたら、そのひとつを売ってヒヤシンスの鉢植えを買うでしょう。私の魂の糧として」とコーランは記述する。宗教的な帰依の感覚が希薄な日本人であっても、この二つの主張は容易に理解できるのではないだろうか。だれしも魂の糧なしには生きて行けない。そして、ひとそれぞれに大切にしている「リラックスのスイッチ」があるはずだ。
 
 
レコード盤に、針が落ちてから数秒の沈黙・・・。それから流れ出てくる音楽に、ゆっくりと浸り込む感覚。向村は、一日の仕事を終えた帰宅後にニュース以外のテレビ番組をほとんど見ない。ドラマへとプログラムが変わる頃には、居間から自室へと移動して愛すべきオーディオセットとの時間を楽しむのだ。彼のオーディオ趣味歴は長い。はじめてレコードをターンテーブルに置いたのは5才。東京オリンピックと大阪万国博覧会(エキスポ70)に挟まれ高度経済成長を邁進する日本。グループサウンズ全盛期だった。それから途切れることなく、オーディオシステムで音楽を楽しむ生活を続けてきた。もちろん、今ではグループサウンズを聴くわけではなく、もっぱらクラシックを好んでいる。
 
 
今日はパガニーニのヴァイオリンで。と選曲すると同時に、今日のサウンドシステムを決める。これらのシステムを構成するコンポーネンツは、お世辞にも最新型とは言いがたい。むしろセミクラシックに分類される銘機の類なのだ。ターンテーブルはテクニクスのSP-10。プリアンプはマランツのセブンにするかテクニクスの10Aか? そして最大の選択肢、パワーアンプへと接続ケーブルは伸びる。約20台はあろうかと思われるアンプには、どれひとつとしてブランドのバッチが付いていない。あえて呼ぶならMUKAIMURA、すなわち自作のアンプなのだ。音楽ソースを選ぶのと同じように、鳴って欲しい音のイメージごとにシステムを選択する。その方向性を決定付けているのは自ら入手した部品によって作られたパワーアンプの数々だった。
 
 
驚いたことに、最新の電子デバイスを駆使した回路設計を日々の生業とする彼が自宅のリスニングルームに設置しているパワーアンプは、すべて真空管でドライブされている。トランジスタの登場により、絶滅の危機に瀕したデバイス。小さく、作りやすく、熱を発しにくいトランジスタ(半導体)は、その後さらに集積回路(IC)やLSIへと発展して真空管を駆逐してしまった。現在のオーディオ機器と比較すれば、真空管によって増幅された音はボケているように感じるかもしれない。決して輪郭がスカッと出ているわけでもない。ソリッドステート(半導体)オーディオが叩き出すエッジの鋭い音響を、現代人は歓迎し受け入れているのかもしれないが、その反面で何か忘れてしまっている大切な要素があるのではないだろうか?
 
「そんなに簡単なことじゃないんだ。」と呟く向村は、いつもの休日とは少し様子が違っていた。5極管の自作アンプからタンノイのスピーカー、レクタングラで鳴らすストリングスの芳醇な音響。半導体のアンプとは歴然と異なる奥行き感と、弦のつややかな響きに浸りながらも、前日おこなわれた企画会議の様子が頭から離れない。若手の企画マンが、真空管を採用したカーオーディオのプランを出してきたのだ。それも、3度目。はたしてアイツは、真空管の音を理解したうえでプレゼンテーションをしているのか? 鋭いアタック、そして地を這うようなベース。更に重要なのは何よりも派手なネオンサインみたいなイルミネーション。売れ筋のカーオーディオに必要とされている要素と、真空管が醸し出す音響とは全く別の次元にあるじゃないか。
 
 
こうして俺が真空管のオーディオを愛用しているとは社内の誰も知らない・・・。真空管をカーオーディオに採用する難しさが痛い程良くわかるんだ。北米製のトランクアンプで真空管を使った新製品を分解してみたけれど、まったくお粗末で真空管のことが解っていない組み上げ方をしていた。あのレベルじゃあ松下の製品としては失格なんだ・・・。真空管が震わせる弦の豊かな倍音に身を委ねながら、向村は自問自答をくり返す。マンションの一室に設けられたリスニングルームに西日が差し込む頃、彼はレコードを交換しながらふたたび呟いた。「簡単じゃないんだ・・・。でも、そろそろ今の仕事に、古きよきオーディオとの関係を復活させるタイミングなのかもしれない。」と。
 
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Technics 10A
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