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未来を照らすあかりを求めて 〜パルックボール・ヒストリー〜

第2章 背水の陣での起死回生  ─スパイラル─ 2000→2004 2000年、未曾有の危機の先にみえた、「スパイラル」は光か闇か・・・。2人から始まった開発の軌跡を追う。

それは2000年秋、大阪府高槻市。2人の出会いから始まった… 究極の省エネを実現し、パルックボール事業を黒字化できるのはスパイラルしかない──! マンガを読む(別ウィンドウで開きます。)

【推奨OS】Microsoft Windows 2000/XP、Macintosh OS10 以上
【必要プラグイン】Adobe Flash プラグイン(バージョン8以上)

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立ち上げ前夜〜商品化〜

商品化計画採用を受けて、開発チームは早速、実証作業への準備を開始した。
工場任せの立ち上げではなく、実証を重ね、設備の設計をして、加工条件を詳細に出した上で自ら設備を工場にリリースする――それは、飯田や内田が当初から掲げてきた、開発における譲れない指針だった。
まずはじめに、実証機の開発を行う。実証機が出来ると今度はひたすら試作と解析を繰り返し、実証を行う中で、商品に求められているスペックをどう実現するかを試行錯誤していく。たとえば電球形蛍光灯の明るさは、温度や発光管の形状、蛍光体の状態、発光管内のガスの状態など、様々な要因に左右される。一部を修正すれば、他の要素すべてをその修正に対応させなければならないわけで、それぞれのパーツの検証と改善を行いながら、少しずつ全体としての精度を上げていかざるを得ない。これは、想像以上に根気のいる作業だ。ましてやゼロからの開発である。どれが正解かなど誰にもわからない中で、ひとつひとつ、考えうる可能性すべてを当たってみるしかない。
飯田は後に、実証作業で最も大変だったこととして「現場の方に諦めずチャレンジし続けてもらうこと」をあげている。大きな壁にぶつかり、現場が諦めかけた時、飯田は自らガラスを手にとり不器用な手で加工し始めた。すると、諦めかけていた現場のメンバーが何も言わずに再びチャレンジし、いつしかその壁はクリアされていくのだった。

2002年9月、開発作業が佳境を迎える中、飯田、内田ら7人の有志は、中国へ視察の旅に出た。7人の中には、開発、生産技術担当の他にも、経理や経営企画の担当者もいた。それぞれの職能を超えて、このプロジェクトを成功させたいがために集ったメンバーだった。スパイラルの量産化がまだ「絵に描いた餅だった」(板谷賢二 開発担当)当時、何らかのヒントが得られればとの思いもあったという。一行は、現地に詳しいOBとともに、工場や大学などを精力的に視察して回った。
まず、彼らの目を奪ったのは、中国のパワーとポテンシャルの高さだった。
中国では、安価な労働力を武器に、工程のほとんどを手作業で行いながら、膨大な数のスパイラルを生産していた。その数多の職人が、開発チームの面々が何度トライしてもできなかった形状を、彼らの目の前でやすやすと作り上げていく。何より彼らの目を奪ったのは、中国人のモノづくりに対する厳しい姿勢だった。「あぐらをかいていたらあっと言う間に日本は負けると思った」(板谷)、「日本は知恵を出さないと絶対に勝てない」(中川)――開発者らは雄大な中国に大いなる刺激を受け、帰路についた。

2002年冬――。
量産設備の開発も進められ、実証作業は大詰めを迎えていた。だが、思うような光束が出ない、発光管の形状がうまく作れない、発光体の塗布がうまくいかない、排気が十分にできない――開発チームは次々に障壁にぶつかる中で、技術的な議論を重ね、時には衝突しながらも、必死の作業を進めた。現場に飯田の怒鳴り声が響いたことも一度ではない。「僕自身、かなり追い込まれるものがあったから。これはもう遊びじゃないんだと」(飯田)。しかし、このパルックボール事業の背水の陣とも言えるスパイラル開発に可能性を見いだし、自らの意志で集った仲間たちの結束は固かった。「心からこの事業をなんとかしたいという人間が集まったプロジェクトだったので、技術的な議論は徹底的にやりました。でも誰もが自分の損得でなくあるべき姿は何かを考えたので、決裂したりはしませんでした。とにかく皆が前に進めようと必死でした」(飯田)。

そして、時は来た。
2003年1月22日、インドネシアでの量産ライン立ち上げのため、開発メンバーは、オープンチケットを手にインドネシアへと飛び立った。

パルックボールスパイラルの構造
電球形蛍光灯は蛍光灯の発光原理を採用しているため、
一般の蛍光灯では器具についている回路を内蔵している。
電球の形(グローブ)の中に、
いかに「細く長い」発光管を組み込むかが最も重要な課題となる。

パルックボールスパイラルの製造工程

異国での立ち上げ〜量産〜

スパイラルが商品化計画に乗った時点で、その製造はインドネシア工場で行われることが決まっていた。最大の理由は人件費だ。人手のかかるスパイラルの製造は国内では無理だったのだ。
しかし、スパイラルの量産ライン立ち上げ当時、インドネシア工場の施設には前機種の量産ラインが導入されており、スパイラルの設備が入る余地はなかった。そのため、ガラス倉庫の荷物を搬出、電気や水道を配して即席の工場をこしらえた。まさに「倉庫の2階を間借りしたような状態」(内田)で、スパイラルの量産ライン立ち上げは始まったのだ。
これまでの新機種立ち上げとは違い、事前に実証を行っているとは言え、立ち上げるのは日本で稼働した経験のない全く新しい量産設備だ。また、日に数十本〜数百本程度しか製造しない実証機とは違い、量産ラインは24時間稼働するため、実証と全く同じ条件でも同じ加工が出来ない場合も発生してくる。
最初の工程であるベンディングで、開発チームは早々に暗礁に乗り上げた。日本では順調に稼働していた条件設定では、安定した形状が出せないのだ。結局、熱源を工夫することで解決したのだが、担当の内田や矢吹は、連日対応に追われた。発光管にガスを封入し口を閉じる封止の工程でも、原因不明のガス漏れが発生したこともあった。

立ち上げの過酷さに加え、慣れない食事や気候もメンバーには堪えた。インドネシアは1月でも気温30℃を超える熱帯だ。今では工場内の環境は大幅に改善されたが、当時の工場内の気温は40℃近くにも上り、炉の付近ではさらに暑かった。多くのメンバーの体重は激減、体調を崩し一時帰国した者もいた。
量産ラインの立ち上げを急ぐ中、立ち上げ後に製品の製造を担当する現地スタッフの育成も行われた。
インドネシア工場は当時、投資回収が厳しい状況にあり、現地のインドネシア人従業員らは一様に危機感を抱いていた。それも手伝ってか、立ち上げに参加したインドネシア人従業員らは、過酷な状況にもかかわらず懸命な努力を重ねた。「インドネシア人の素直な心とチャレンジ精神に、どれだけ助けられたかわからない」(板谷)など、スパイラルの立ち上げが成功した大きな要因として、彼らの働きをあげる者は少なくない。

多くのハードルを越え、かくして、パルックボールスパイラルの量産ラインは立ち上がった。立ち上がってみると、製品の安定度が高く、歩留りが非常に高い。当時、スパイラルの立ち上げを支援するために現地に取締役として赴任した大原幸一は言う。「日本で使ったこともない設備を海外で立ち上げるのは、日本のように後方支援が期待できないだけに、よほどのチームワークがなければ成功することはなかっただろう」と。
終わってみればわずか3ヶ月。あっという間の立ち上げだった。
飯田は振り返る――「自分のわがままで始めたようなプロジェクトで、必死に仕事をしてくれる仲間がいて、全員が一致団結すると信じられないような結果を導き出せることを経験した。人の力は本当にすごい」。
パルックボールスパイラル――それは、プロジェクトに集ったすべての者の情熱と信念とが見事に結実した、まさに、背水の陣の起死回生だった。

2003年6月、照明社は、スパイラル発光管を採用したパルックボールE17口金タイプを発売。そして、2004年6月、最も売れ筋であるE26口金タイプのパルックボールスパイラルが、満を持して発売された。

  • 工場の様子
    工場の様子。もともとはガラス倉庫だった建物の2階から、スパイラルの量産ライン立ち上げは始まった。
  • 各工程の問題点や課題を共有し、解決に結びつけていく
    各工程の問題点や課題を共有し、解決に結びつけていく。
  • 念願の第1号が点灯した
    念願の第1号が点灯した。電球を持つのがインドネシア工場社長三川勝之。三川の向かって左、黄色い帽子が開発担当の飯田史朗。

※このコンテンツは、2009年にパナソニック株式会社 ライティング社より刊行した書籍『未来を照らすあかりを求めて』(非売品)の内容を抜粋・再編集したものです。

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